5月も最後の主日を迎えました。4月、5月の歩みはあっという間のような、しかし長かったような、そんな歩みを過ごしましたが、主の御前に静まり、主の足元に座って耳を澄まし、主の御声に聴いて新しい週へと歩み始めてまいりましょう。愛するお一人一人に主の豊かな祝福を祈ります。
1.主イエスを囲む食卓
教会では毎月一度、月の最初の日曜日に聖餐式を祝います。先日の信徒懇談会では、来月からコロナ前のように説教の後に聖餐を行うことをお伝えしました。教会に与えられている主イエスの贖いの恵みのしるしとしての二つの式、「洗礼式」と「聖餐式」、これを「聖礼典」と呼びますが、これを覚えて聖餐式のことを「主の晩餐の礼典」と呼ぶことがあります。朝の礼拝で行うのに「晩餐」とはどういうことか、と思う方もおられるかもしれません。しかしこの「晩餐」が、あの十字架の受難を前に主イエスが愛する弟子たちとともにされた最後の晩餐の出来事に由来することから、こうした呼び名が付けられました。今日からその最後の晩餐の場面を読み進めることになります。
実際に最後の晩餐の席でのハイライトとなる出来事は22節から25節に記されるのですが、今朝はその前の12節から21節に目を留めたいと思います。主イエスの十字架の贖いの御業がなされる直前に、その意味を明らかにし、それを覚えるために守り行うようにと最後の晩餐が制定されようとするこの食卓で起こっていること、それが愛する弟子の一人が主イエスを裏切るという恐ろしく悲しくショッキングな出来事の予告でした。マルコの福音書はこの出来事に目を向ける前に、まずこの食事が「過越の祭りの食事」であったことを記します。12節から16節。「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。『過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。』イエスは、こう言って弟子の二人を遣わされた。『都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。そして彼が入っていく家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。』弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした」。ここで私たちは先の11章で、都エルサレムに入場なさる際に、子ロバを手配なさった主イエスのお姿を思い起こすでしょう。主イエスは自ら進んで都エルサレムに向かわれる。表向きは都で始まろうとしている過越の祭りを祝うためと見えますが、実際には主イエス自ら、十字架に向かう準備を着々と進めておられることが伝わってくるのです。
実はこの場面が過越の食事と言えるのかどうかについては議論があります。マルコを始めとする共観福音書はこの食事は過越の祭りの日の夕方から始まり、翌日の種なしパンの祝いの日の第一日にかけて行われたと記すのですが、ヨハネ福音書13章1節は「さて、過越の祭りの前のこと」と記し、18章28節でも「さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった」と言う。つまりヨハネ福音書ではこの食事の日にちが一日前にずれるのです。いずれにしても、マルコ福音書がこの食事を「過越の食事」とするのは大事な点です。過越の食事というのは出エジプト記12章1節から12節に記されるもので、かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であったとき、彼らを救い出すために神が下された十の災いの最後のもので、子羊を屠り、その血を家の門柱とかもいに塗り、その後、その肉を焼いて、種なしパンと苦菜と一緒に食するというもので、神によるエジプトからの救出を記念して、その後の長い歴史の中で守られ続けて来た大事な儀式でした。その祭りの食事の席で主イエスはパンとブドウ酒を差し出しつつ「これはわたしのからだ」、「これはわたしの契約の血」と言われる。まさに主イエス御自身が十字架に屠られる神の子羊であることを示される。それが主の晩餐の中心にあることなのです
2.裏切りの食卓で
しかし福音書はそのような大事な食事の席での、これもまた大きな出来事を記します。それが主イエスの語られた弟子の裏切りの予告です。17節、18節。「夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスに言われた。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります』」。夕方から始まった過越の食卓。本来なら神の救いの御業を思い起こして喜び祝う宴です。ところがその席上で主イエスの口から出て来たのは、弟子の裏切りを告げるという大変ショッキングな言葉でした。主イエスはそれが誰であるかをもちろんご存じです。私たちもすでに先の10節、11節で裏切る弟子が誰かを知っています。そして当然ながら、当の本人ももちろん分かっています。イスカリオテのユダ。彼がその人です。
しかしこの場にいる他の弟子たちはそれが誰であるかを知りません。それで大きな動揺が走るので。19節。「弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。『まさか私ではないでしょう』」。ある翻訳聖書は「まさか、この私では」と訳されます。ここはよく思い巡らしておきたいところです。「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切る」との主イエスの言葉を聞いたとき、弟子たちは「あの人ですか、この人ですか、どの人ですか」と言わなかった。そうではなく「まさか、この私ではないか」と自分を指さしたのです。「そんなこと、自分のことならすぐ分かるではないか」と思うかもしれません。でも自分に「絶対」はない。むしろ「この私ではないか」と問うた。しかも皆が一人一人、そう自分に問うたというのです。これは私たちが聖餐にあずかる上で大切な自らへの問いかけでしょう。
今日も週報に次主日の礼拝で聖餐式があるので祈り備えようと書きました。聖餐のために祈り備えるとはどういうことか。何をすることなのか。その一つのあり方がここに示されていると言えるでしょう。聖餐の意味については繰り返し学んでおきたいと思いますが、結論的に言えば私たちが主イエスの十字架の贖いによって罪赦された者として与る喜びの食事です。さらにはやがて終わりの時に天の御国で主イエスに招かれ、愛する者たちが一同に会する天の祝宴の先取りでもあります。聖餐は、自分の罪を悔いて、嘆きながら食する涙の食卓ではなく、自分の罪が確かに赦されたことを感謝し喜ぶ食卓です。ですから聖餐は洗礼を受けた方があずかる。それは排除ではなく、その喜びにあずかってほしいと願う招きの時でもあるのです。
けれどもそればかりでなく、私たちはこの罪赦された喜びの食事の席でなお、自分自身の罪と向き合うことになる。確かにここにいる十二人のうち主イエスを裏切るのはイスカリオテ・ユダ一人です。ではほかの十一人は要らぬ心配をしただけのことなのか。後で裏切り者がユダだったと知って「ああ自分でなくてよかった」とホっと胸をなで下ろしたのか。「やっぱりユダだったか。あいつならやりかねないと思っていた」としたり顔で言うのか、決してそうではないのだと思います。20節、21節。「イエスは言われた。『十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。人の子は、自分について書いてあるとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切る人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです』」。とてもつらい言葉です。「そういう人は、生まれて来なければよかった」。本来なら絶対に口にしてはいけない言葉です。「イエスさま、それはいくらなんでも言い過ぎです」。そう言いたくなる言葉です。でもこの言葉を前にして私たちは耳を塞ぐことができないのです。
3.主の食卓で
この主イエスのお言葉の背後にあるのは詩篇41篇9節です。「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます」。イスカリオテ・ユダという人物をどう評価するかは難しい問題です。主イエスとユダの間にいったい何があったのか、いつからユダはそして何がきっかけでユダは主イエスを裏切ることになったのか。ユダを巡っては様々な問いが生まれます。しかしハッキリしているのは「私が信頼した親しい友が」との心を主イエスもまた感じておられたであろうということです。そして親しい弟子の一人ユダでさえ主イエスを裏切るとすれば、いったい自分はどうだろうかと私たちも自らを省みずにはおれないのです。その意味でその後、教会は聖餐を祝うたびに、同時にユダのことを思い起こさないわけにはいかない。そして「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切る」との主のお言葉の前に「それは私ではないか」と思い当たるものを持っている自分自身と向き合うことになるのです。
しかし、その食卓は主イエス・キリストが十字架を前に備えられた食卓です。これがわたしの身体だ。これがわたしの血だ。さあこの私の身体を食べろ。さあこの私の血を飲め。そう言って私たちに迫られる、主イエスの愛の結晶のような食卓なのです。主イエスの御臨在の前に、主イエスに敵対した自分がいる。主イエスを悲しませた自分がいる。主イエスを十字架につけた自分がいる。主イエスを裏切った自分がいる。あの人がどうか、この人がどうか、ということではない。ユダのことでさえ、私たちは主イエスに委ねなければならない。
その上で「生まれなかったほうがよかった」とさえ思うほどの罪ある自分が、でも今日、いま、こうして生きている。生かされているという事実を思う時、それは決して当たり前ではないのだと気づかされる。この私の罪のために主イエス・キリストが十字架にいのちを贖ってくださったのです。そしてこの主イエスの贖いのゆえに罪赦されたならば、もう私たちは二度と「生まれなかったほうがよかった」と言われないし、自分でそう言うこともない。罪の中に死ぬべき私が、主イエスの死によって赦され、生かされた。そうして生かされたいのちを主イエスは「尊いもの」としていてくださる。このキリストのおかげで、私は今「生まれてきてよかった」そして「生きていてよい」と神が肯定してくださるのです。このいのちに生かすために主イエスが備えてくださった主の食卓へと進み出ていく私たちでありたいと願います。