新しい月、5月を迎えました。緑のまぶしい美しい朝、世の中は連休の最中ですが、こうして私たちにも主にある安息の一日が備えられていることを感謝します。主のいのちのみことばに養われ、恵みと祝福を存分にいただいて、新しい一ヶ月、新しい一週へと遣わされてまいりましょう。皆さんお一人一人に主の豊かな祝福がありますように。
1.「はじめ」と「終わり」
今朝からしばらくの間、マルコの福音書を読み進めます。前任の間島牧師が続けてこられたマルコの連続講解説教を受け継いでのことです。今朝の御言葉は、主イエスが世の終わりの事柄について語られた箇所です。まず14節から23節。「『荒らす忌まわしいもの』が立ってはならない所に立っているのを見たらー読者はよく理解せよーユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。このことが冬に起こらないように祈りなさい。それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。そのとき、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました」。
この箇所はしばしば「小黙示録」と呼ばれると教えられました。「黙示文学」というのは旧約ではダニエル書、新約ではヨハネ黙示録など、紀元前二世紀ごろから紀元一世紀頃に盛んになったユニークな文学類型の一つです。その特色は「極彩色のイメージの言葉が多用される」こと、「一読するだけでは何を意味しているか分からない」こと、その理由として「世界の終わりのことがらが記される」ことです。かつて奉仕していた教会でヨハネ黙示録の連続講解説教をしたことがありました。前もって教会の皆さんに「次は黙示録を学びます」と予告したところ、礼拝後に一人の方が飛んできて、「先生、怖い話はしないでください!」と訴えられたのを覚えています。たしかに「黙示録」というのは、ちょっと怖い。今日の箇所もそうです。しかしそのような書きぶりの一つ一つに目を留める前によく心しておきたいことが二つあります。一つは、黙示文学というのは「敢えてそういう書き方をしている」ということです。それを書くと当時の社会では非常に差し障りのある、しかしきちんと伝えないといけない事柄。そういうことを「分かる人には分かる」という仕方で書いた。ですから例えば「大バビロンが倒れた」」という表現などは、当時のローマ帝国のことを指しているのですが、それをそのまま「ローマが倒れた」と言うことは難しい。そこでそれをかつてのバビロニア帝国のイメージに包んで、「耳のある者は聞け」という命令とともに書き送る。「暗号文書」というと言い過ぎでしょうが、しかしそのような性格を持っていて。当時の信仰者たちは、これらの言葉を通してその時代を生きる上での大切なメッセージを受け取っていたということを覚えたいと思います。そしてそれは今の私たちにも求められている聖書の読み方だということです。
もう一つのことは、「聖書の持っている歴史の見方がある」ということです。その大きな歴史の見方の中でこのような御言葉を読むことがとても大切な態度なのです。では聖書の歴史の見方とはどのようなものか。一言で言えば「はじめがあり、終わりがある」ということです。創世記1章1節で「はじめに神が天と地を創造した」と書き始められる聖書は、黙示録を通して「世界の終わり」を記す。この世界は未来永劫続く世界、グルグルと円環し続ける世界ではなく、神がはじめられ、神が終わりをもたらされるということです。しかもその場合の終わりは世界の破壊、世界の消滅、世界の滅亡といったことでなく、創造主なる神によって造られた世界の完成、神の救いの成就、すなわち「神の国」の完成と成就だということです。これが、今日のような箇所を読む際にとても大事なポイントとなってくるのです。
さらにもう一言付け足すと、聖書の中ではこのような歴史がパイ生地やミルフィーユのように重なって描かれていく。たとえば今日の主イエスのお言葉も、いきなり「世界の終わり」について語っているというよりも、その前に紀元70年に起こるユダヤのローマ帝国に対する独立戦争と敗北、そしてエルサレム陥落と神殿破壊の出来事を指しています。そのような歴史の重なりを通して、ちょうど透明のスクリーンに描かれた絵を何枚も重ねて行くうちに、全体像が見えてくるような書き方がされていることに注意しておきたいと思います。
2.荒らす忌まわしいもの
以上を踏まえてあらためて今日の箇所を読むと、「おわり」が到来する前に「苦難のとき」があるということが記されます。私たちはできれば苦難には遭いたくないのですが、しかし主イエスは「あなたがたは世にあっては苦難がある」と言われ、「気をつけていなさい」と注意を喚起しておられます。では何に気をつけたらよいのか。何が私たちにとっての苦難なのか、13章5節から8節ですでにそのことは触れられていましたが、今日の箇所で言えばその最大のものは14節の「荒らす忌まわしいもの」の出現、そして続く22節の「偽キリストたち、偽預言者たち」の出現です。
ユダヤ人たちが「荒らす忌まわしいもの」と聞いたときに思い出すつらい経験がありました。かつてダニエル書9章27節で「荒らす者が現れる」と言われた出来事です。旧約聖書の最初の書物であるマラキ書から主イエスの到来までの約400年を「中間時代」、あるいは「第二神殿期」と呼びますが、この間のユダヤは激動の歴史を過ごしました。有名なアレクサンドロス大王率いるマケドニア帝国がペルシャ帝国を滅ぼし、さらには紀元前4世紀になるとシリヤのセレウコス王朝が勢力を伸ばし、紀元前2世紀にはユダヤ地方を支配下に置く。そから悪名高きシリヤの王アンティオコス・エピファネスによる徹底したユダヤ人弾圧が始まります。エピファネスのユダヤ人弾圧は徹底しており、神礼拝を冒涜し、エルサレム神殿内に異教の神々を祀るということをしたのです。それがダニエル書で言う「荒らす者」でした。このアンティオコス・エピファネスのような「荒らす忌まわしいもの」が再び登場し、再び異教の偶像礼拝がもたらされ、主の御名が汚され、主の民が迫害を受ける苦難の時代がやってくる。そのような苦難の時代に備えて「気をつけていなさい」というのが、ここでの主イエスのお言葉なのでした。
アンティオコスの神殿冒涜の出来事から連想するのは、第二次大戦中の日本の教会の神社参拝、天皇崇拝、それらの隣国への強制、それに抵抗した人々を見捨てた罪です。私たちの教団所属の教会も、戦時下の礼拝では宮城遙拝、君が代斉唱、教育勅語奉読、戦勝祈願を行いました。国家に強制されてというばかりでなく、進んでこれに迎合していった歴史です。まさにあのアンティオコスの時代と同じです。「荒らす憎むべきもの」が自分の立ってはならない場所に立ってしまった。教会もまたそこに立たせてしまった。戦後80年を迎えたこの年、この罪と過ちを決して繰り返してはならないという思いを新たにしたいと思います。主イエスは「山へ逃げなさい」と言われた。なんだ逃げるのか、闘うのではないのか、と思うのですが、山へ逃げよとは、その神殿礼拝に連なるな、偶像礼拝の場からすぐさま離れよ、ということでしょう。そこに苦難の時代における教会の戦い方、信仰告白の戦い、抵抗の戦いがあるのだと思います。
3.偉大な力と栄光とともに
主イエスが語られた苦難の経験は、単に過去の人々だけのことではありません。先の聖書の歴史観は重層的だと申し上げました。この苦難の経験も「すでに」終わったことであるとともに、「やがて」起こることでもある。私たちもそのような緊張感を持つことが求められています。しかし同時に主イエスはこうも言われました。24節から27節。「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから地の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます」。
ここに私たちの希望と慰めがあります。聖書は「はじめがあり、終わりがある」と教えますが、同時に「夕があり、朝がある」と語り、「苦難から栄光へ」、「死から復活へ」を語る。苦難の時代にあって、私たちには偉大な力と栄光とともに来られる「人の子」、救い主イエス・キリストを待ち望むことが許されているのです。再び信仰による迫害と苦難の時代が来たら、事実、今もそのような迫害下にある方々がいらっしゃいますが、その場に自分が立たされた時、自分は信仰を貫けるだろうかと思います。終わりの時に主イエスの前になど出られる者ではないと恐れを感じます。
しかし主イエスは言われるのです。「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」。かつ私はこの御言葉を、終わりの時の福音の宣教への励ましと受け取って来ました。それは確かにそうだと思います。それでもあらためてこの御言葉を読むとき、福音宣教によって救われる人だけではなく、信仰に躓いてしまった人、転んでしまった人、途中で脱落していった人、信仰を捨てたとさえ見える人をももう一度お集めくださる、そのような終末における神の民の結集の姿を見るのです。偉大な力と栄光とともに再び来られる主イエス・キリストをお迎えするまで、私たち地上の教会の戦いは続きます。それはまことに厳しいものでしょう。「たとえ他の者が裏切っても、私は裏切りません」などと言える者はない。むしろ躓き、転び、倒れていくような私たちとなるでしょう。それでも私たちはこの主イエスのお約束を信じたい。無様な姿ですがるようにしてでも信じたい。そして主イエスを仰ぐ者とならせていただきたい。主イエスのみに礼拝をささげて生きる礼拝の民として、今日もここから歩み出しまいりましょう。