主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターから一週間を過ごしました。4月も終わりを迎え、新しい生活を始めた皆さんも、少しずつ緊張が解けるとともに、疲れもやってくる頃かと思います。主の安息の中に身を置いて、みことばによって養われ、いのちを新たにしていただいて、5月の歩みへと向かってまいりましょう。愛するお一人一人の主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.よみがえりの後に
この朝、与えられているみことばは、主イエス・キリストがよみがえられた復活の日曜日の夕方の出来事です。少し前の19節、20節を読みます。「その日、すなわち週のはじめの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ」。まだよみがえられた主イエスのお姿を見てはいない弟子たちは、「恐れ」に取り囲まれていました。それは愛する主の十字架の悲惨な死がもたらした「別れの恐れ」、これから自分たちはどうなっていくのかという「明日への恐れ」、そして自分たちも主イエスと同じように殺されるのではないかという「死への恐れ」だったでしょう。
彼らの恐れは私たちにもよく分かるものです。主イエスがともにいてくださると信じていても、いや信じているからこそ、その主イエスが私から離れてしまわれるのではないかと恐れが生まれる。主イエスがともにいてくださるとわかっていても、明日からのことが不安になる。そして死への恐れがつきまとう。それに加えてまだ私たちは不安や恐れがある。それは「信じること」、「信じる続けること」への恐れです。目に見えない神をどうして信じることができるのか。神が人となったというイエス・キリストをどうして信じることができるのか。このイエス・キリストの復活をどうして信じることができるのか。そしてそれが私のためだとどうして信じることができるのか。信じても疑いや憂いが生まれ、信仰がぐらつくような弱い私がどうして信じ続けることができるのか。そこには信じて救われてなお私たちが抱く恐れの現実があります。
しかしそのような弟子たちの真ん中に主イエスがお出でくださり、言われるのです。「平安があなたがたにあるように」。主は私たちの恐れを軽んじられる方ではありません。私たちの恐れを「そんなつまらないことで」とあしらわれることをなさらない。むしろ私たちが何によって恐れ、何によって平安を奪われ、何によって揺さぶられるかをよくご存じです。だからこそ恐れる弟子たちの真ん中に来てくださいました。そして主イエスがお出でくださることで、「恐れ」を「喜び」に変えてくださったのです。
2.デドモと呼ばれるトマス
そして今日の24節。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった」。一週間前の日曜日の夕べ、大事な場面に居合わせなかった弟子がいた。「デドモと呼ばれるトマス」です。どういう理由かはわかりません。とにかく彼はよみがえられた主イエスとお会いする大事なチャンスを逃してしまったのです。25節。「それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません』と言った」。
他の弟子たちが口々に「私たちは主を見た」、「私たちは主を見た」と驚き、喜び、興奮気味に語り合うなかで、自分一人だけはこの目で見ていないし確かめてもいない。皆が喜ぶ中で一人その輪に入れない、出遅れてしまったトマスの若干の悔しさも混ざり合った言葉とも聞こえます。よく「聖書かるた」では「う」、「うたがい深いトマスさん」と歌われてしまうのですが、むしろトマスの真剣さを表す言葉とも言えるでしょう。よみがえられた主イエスをはっきりとこの目で見て確かめたい。その傷跡に触れてでも主イエスのよみがえりの事実を確かめたい。他人任せの信仰でなく、自分自身のこの目とこの手で確かめてみたい。そういうトマスの真剣な求めがここにあるのではないでしょうか。
そのトマスの求めに答えが与えられるときがやって来ました。26節。「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように』と言われた」。一週間前の日曜日の夕方とまったく同じようにして、主イエスは弟子たちに現れてくださいました。そしてもう一度「平安があなたがたにあるように」と語ってくださいました。ヨハネは「トマスも彼らと一緒にいた」と念を入れ、今回の主イエスの現れはトマスのためといわんばかりの書き方をしています。しかも27節で「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』」と、まるで24節のトマスの言葉をその場で聞き、その疑問を一つ一つ解きほぐすかのように語ってくださる。そしてついには「決して信じません」と言い切ったトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と信仰への招きをなさるのです。
この主イエスの招きを受けてトマスは応じたでしょうか。「それではちょっと失礼して・・・」とその傷痕に本当に指を差し入れたのでしょうか。もはやそのようなことは必要ありませんでした。28節。「トマスは答えてイエスに言った。『私の主、私の神』」。よみがえられた主イエス・キリストのお姿を前にした時、その生々しいまでの釘の跡、槍の跡を目の当たりにした時、彼はもはや手を触れるまでもないほどにはっきりとわかった。そして信じた。そして「私の主、私の神」と主イエスへの信仰を告白したのです。
3.信じる者の幸い
こうしてよみがえりの主イエスを「私の主、私の神」と告白したトマスに向けて、主イエスは言われました。29節。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」。ちょっと突き放されたように聞こえる言葉かもしれません。「トマスよ、お前は見たから信じたのか。どうして見ないで信じないのか」と。しかしヨハネ20章の主イエスのよみがえりを巡る一連の出来事では、「見ること」と「信じること」とが様々にせめぎ合っていることがわかります。マグダラのマリヤから主イエスの墓が空っぽだと聞いて墓に走ったペテロともう一人の弟子。その弟子が8節で「そして、見て、信じた」と言ったのは、マリヤの言ったとおり墓に主イエスの亡骸がないことに向けての言葉でしょう。その後、復活の主イエスはマグダラのマリヤに現れますが、14節では「イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった」とあります。ところが16節で「イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボ二(すなわち、先生)』とイエスに言った」とあり、18節で「私は主にお目にかかりました」というのです。
これらの箇所から伝わってくるのは、復活の主を見ることと信じることが単純に直結しているわけではなく、むしろ「見る」という振る舞い以上に、そこによみがえられた主イエスから語りかけられ、人格的な出会いが起こることがより決定的に重要だという事実です。そもそもよみがえられた主イエスのお姿をその目で見ることのできた人々は限られていました。そしてその数は確実に減っていきます。つまり見て信じる人よりも、見ないで信じる人が圧倒的に増えていくのであり、現に私たちもいま、この目で復活の主イエスを見たわけではないのに見ないで信じることができたのです。そしてそのように「見ずに信じる者」を幸いだと主イエスは言ってくださるのです。
4.みことば、聖霊、礼拝
「見ずに信じる」ことは難しいと思ってしまうことがあります。自分の弱い信仰で信じ続けることができるだろうかと不安になることもあります。しかしそんな私たちに主イエスは「これがあれば大丈夫」と確かなものを与えてくださいました。
一つは神のみことば、聖書です。今、こうして私たちに聖書が与えられている。見て信じることのない私たちに、しかしそれ以上に確かなこととして神のことばが与えられている。もう一つは聖霊の神さまです。主イエスの復活から50日後、ペンテコステの日に助け主の聖霊が来てくださった。私たちのうちに今日も働いて、私たちに信仰を与え、その信仰を支え続けてくださるのです。そしてもう一つがこの礼拝です。主の日毎に礼拝に集い、説教を聴く時に、聖霊がみことばとともに働いてくださり、よみがえられた主イエスのご臨在を豊かに現してくださるのです。この主イエスと私たちはこの礼拝においてお出会いしているのです。だから大丈夫なのだと。聖書に信頼し、聖書を通して主イエスを証してくださる聖霊に信頼し、そしてその聖書の御言葉をともに聞くこの礼拝に集っているなら大丈夫なのだと。その安心、平安を主は与えてくださっています。
主イエスを見て信じた弟子ペテロは後に教会に向けてこう書き送りました。一ペテロ1章8節、9節。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれど愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。
見えない神を信じるなどということがどうしてできるのか。この礼拝に集う方々の中にもそんな問いを抱いている方があるかもしれません。本当にそうだなあと思います。でも一つ確かなことは、この礼拝が、主イエス・キリストを証ししているということです。ここにこうして集う人々の姿が、賛美を歌う姿が、頭を垂れて祈る姿が、御言葉に聴いて応答する姿が、何よりも生けるまことの救い主イエス・キリストを証ししているのです。主イエスを信じる喜びに生きている人々の姿を通して、その真実な礼拝の姿の中に神は証しされる。礼拝する人間の姿こそが、本来の人間の姿であり、その姿においてこそ生ける神は証しされる。この信じる者の幸いを覚えて、復活の主イエスを「わが主、わが神」と告白しつつ、礼拝の民としての歩みを続けてまいりましょう。