イースターを迎えました。主イエスのよみがえりの恵みを覚えて、御名を賛美します。

教会は主イエスの十字架と復活の出来事を記念し続け、受け継ぎ続けて来ました。ユダヤ教の土曜安息が日曜日の「主の日」の礼拝に切り替わったのも、主イエスの復活の出来事を覚えることが一つのきっかけでしたし、聖餐式(主の晩餐の礼典)も主イエスの贖いの恵みを覚え続け、想い起し、今、天の父なる神の右の座におられる主イエスと私たちが聖霊によって結び合わされていることの大切なしるしでもあるのです。

こうして教会が受け取り、受け継いで来た信仰の一つの結実が「使徒信条」などの信仰の言葉です。教会はイエス・キリストが真の神の子、救い主、私たちの主であることを中心として、御子イエス・キリストの父なる神、そして御父と御子から遣わされた助け主の聖霊の「三位一体の神」を信じ、告白し続けて来ました。それとともに大切にしてきたのが「教会を信じる」という告白です。「使徒信条」は「われは聖なる公同の教会を信ず」、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」は「われらは唯一にして聖なる、公同の使徒的教会を信ず」と告白しました。

「三位一体の神を信じる」と「教会を信じる」はイコールではありません。教会は神さまのような信仰の対象ではないからです。それではなぜ「教会を信ず」と告白するのか。しかも私たち罪人の集まりであり、傷も欠けも弱さもある教会を、なぜ「信じる」と言えるのか。これは簡単に答えを出すもの、出せるものでなく、祈りつつ考え続けて行くべきテーマでしょう。それでも私たちにとって重要なのは、教会は「神の教会」であり、教会のかしらは「イエス・キリスト」であり、教会は「聖霊の宮」であるという事実です。これなしに「教会を信ず」との告白は成り立ちません。だからこそ「三位一体の神を信ず」に続いて「教会を信ず」と告白できるのです。