この朝は「棕櫚の主日」、「パーム・サンデー」と呼ばれ、いよいよ受難週が始まります。ロバの子の背中に乗った主イエス・キリストが都エルサレムに入城される。人々は自分の棕櫚の葉や自分の上着を道に敷き、「ホサナ、祝福あれ」と大声で賛美しながら主イエスを迎える。それはさながら「王の凱旋」のような光景です。しかし私たちは知っています。彼らのその同じ口がやがて「イエスを十字架につけよ」と叫ぶようになるのです。そのような受難週の始まりの朝に、私たちは主イエスの祈りの姿に目を注ぎたいと思います。今朝も主によって招かれた愛するお一人一人に豊かな祝福がありますように祈ります。
1.ゲッセマネの祈り
先週木曜日、はじめて多磨教会の「特別祈祷日」に参加しました。朝の6時半から夜の11時半まで途切れることなく教会の祈りがささげられていることに感動を覚えました。私も6時半から7時半、18時半から19時半、そして23時から23時半まで礼拝堂で祈りの時を持ち、豊かな時を過ごすことができました。また昨年末に『三位一体の神と語らう 祈りの作法』という祈りの本をいのちのことば社から出版しました。私自身は決して祈り深い人間だとはいえないのですが、祈らざるを得ないような試みの中を通された経験から、あらためて祈りについて教えられたことをまとめたものです。その本の中でも触れたのですが、「祈りの中の祈り」、「究極の祈り」ともいうべき祈りについて、この朝、みことばから教えられてまいりたいと思います。
「究極の祈り」。それは今日開かれているマルコの福音書に記された、主イエス・キリストの十字架の受難を前にしてのゲッセマネでの祈りの姿です。特に集中して考えたいのが、御子イエスが御父に向かって叫ぶように祈られた祈りです。36節。「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」。ここでまず確認したいのは、「祈り」というものが、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の生ける神との「語らい」であり、「交わり」であるという事実です。しかし自らの祈りの生活を省るとき、私たちの祈りは神との「語らい」、「交わり」であると言いつつ、実際のところそのほとんどが「願い」であり、もっぱらの関心は、その願いが聴き届けられるかどうかという一点に集中していることに気づきます。
それが間違っているということでは決してありません。祈りの主たる内容が「願い」であることは確かですし、主イエスも私たちに「何でも願え」と教えてくださっています。しかし祈りの関心が「願うこと」と「聴き届けられること」だけに向かってしまうとすれば、まことに大切なことを見過ごすことになってしまうでしょう。 そこで主イエスのささげられた次の祈りに注目したいのです。「この杯をわたしから取り去ってください」。これは主イエスの切実な願いです。39節でも「イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた」とあるようにこの祈りを繰り返されたのでした。「この杯」が、この後に起こる十字架の受難の出来事を指すことは明らかです。主イエスはその十字架を前にして「この受難をわたしから取り去ってほしい」と願われた。
あらためて考えてみると理解に苦しむ祈りです。確かに十字架の出来事は私たちの想像を絶するほどの出来事です。肉体の苦しみはもちろんのこと、御子イエスが御父から捨てられるという、三位一体の交わりが引き裂かれるほどの出来事です。ですからその出来事を前に主イエスが「この杯を取り去ってください」と祈られたのは、本心からの言葉であることは確かです。しかしその一方でこう思うのです。主イエスは十字架の受難を覚悟しておられたのではなかったのか、そもそもそのために人としてお出でになったのではないかと。それをどうして今さらこのような願いを祈られるのかと。それでも実際の受難の始まりを前にして、主イエスは祈らざるを得なかったのでしょう。「アバ、父よ、どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と。
2.聴き届けられない祈り、聴き届けられた祈り
そこで私たちの最大の問いは、主イエスの切なる祈りは果たして聴き届けられたのかということです。結論を言えばこの願いは聴き届けられませんでした。この後、主イエスは裏切り者イスカリオテ・ユダの手引きでやって来た祭司長たち、律法学者たち、群衆たちによって捕らえられて大祭司カヤパの官邸に連行され、続いて総督ポンテオ・ピラトのもとに身柄を移され、死刑に価する何の罪も見出されなかったにもかかわらず、群衆たちの声に押し切られるようにして判決が下され、十字架刑が執行されていくのです。御子が御父に切実に願われた祈りであったにもかかわらず、この願いは聴かれなかった。ある意味で私たちにとってもショックなことです。聴き届けられない祈りがあるだという現実をもっとも鋭い仕方で突きつけられるのです。
しかし主イエスの祈りはこの願いで終わってはいませんでした。続きがあるのです。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」。ここでの「しかし」が重要です。この「しかし」に結ばれて、「この杯を取り去ってほしい」との願いは聴き届けられず、「あなたのお望みになることが行われますように」との祈りは聴き届けられたのです。ある人はここに、ただ一人の人間になってしまったイエスの姿を見ます。死に至る苦しみへの恐れにとらわれ、弱さと限界を見せる人の姿です。死を恐れ、死から逃れようとし、苦しみを取りのけてほしいと願った人間イエス。そこに神に抗う人間の姿を見るのです。そして後半の祈りでは、そのような抵抗むなしく神によって屈服させられていく人、諦めてしまった人、そこで自分を放棄してしまった人の姿を見るのです。
けれども、本当にそうなのでしょうか。むしろ私たちはこの朝、この父なる神に向かって「アバ、父よ」と祈る御子イエス・キリストのお姿に、私たちのために神が人となって来てくださったまことの救い主のお姿をはっきりと見るのではないでしょうか。この主イエス・キリストの祈る姿は、父なる神に抵抗むなしく屈服させられた姿などではなく、むしろ自ら進んで父なる神の御心を受けとめ、それに従って行かれる神の御子、油注がれたメシア、救い主としてのお姿なのです。
3.究極の祈り
ここに私たちは「究極の祈り」の姿を見ます。「願いが聴かれるか、聴かれないか」という私たちの考える祈りの中心をさらに突き抜けていく祈りの世界を垣間見させられるのです。祈りの究極の姿、それが父なる神の願いへの服従であり、父なる神の御心との一致の姿なのです。そこではもはや「わたしの願いが聴かれるか、否か」が祈りの焦点、ハイライトなのではなく、父なる神の願い、父なる神の御思い、父なる神の御心との一致が祈りの焦点なのです。そしてその父なる神の願いとは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに罪赦され、神の子とされ、御子イエスが祈られたように、心から父なる神に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことのできる御子の御霊をいただき、三位一体の神との生ける交わりに迎え入れられることなのです。その時に、私たちは御子イエス・キリストの究極の祈り、聴かれずして、しかし聴かれた祈り、そしてその祈りのゆえに与えられた恵みの大きさに気づかされるのです。
これとの関連で最後にもう一つ。聖書の中で「聴かれなかった祈り」として思い起こされるのが、Ⅱコリント12章7節、8節のパウロの言葉です。「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました」。ここでパウロが取り去ってくださるようにと祈り願った「肉体の一つのとげ」が何を指すのかは諸説あるようですが、もっとも有力なのは、彼が目を患っていて視力が落ちていたということです。とにかくそんな彼はその「肉体のとげを去らせて欲しい」と三度も主に願ったのにその祈りは聴き届けられなかった。けれどもパウロは続けて言うのです。9節。「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」。この「わたしの恵みはあなたに十分である」との主イエスのことばのゆえに、パウロの祈り願った以上のものとして、「キリストの力」におおわれるという仕方で彼の祈りは聴き届けられたと言えるのです。「「聴き届けられなかった祈り」の中で、生けるキリストご自身の臨在そのものが、「聴き届けられる祈り」となった。このような祈りの姿は、三位一体の生ける神と私たちとの祈りの交わりにおける最も深く緊密な姿と言ってよいでしょう。
日本を代表するキリスト者、多磨霊園にお墓がありますが、あの内村鑑三が『聴かれざる祈祷』という書物の中で次のように述べています。「依って知る、祈祷の聴かれないのもまた決して悪いことではないことを。然り、祈祷の聴かれないことがその真に聴かれたことである。神が人にくだしたもう最大の恩賜(たまもの)は神御自身である。彼を識ることが永生(かぎりなきいのち)である。・・・而して神はつねにその最大の恩賜をその子に与えんとなしたまいつつあるのである。而してこの恩賜は苦痛とともに与えられつつあるのである。而して信者の最大の苦痛は、聴かれざる祈祷である。而してよくこの苦痛に堪え得る者に、神は御自身なる、彼の最大の恩賜をくだしたもうのである。神の愛のこの秘訣を知って、我らは我らに聴かれざる希求のつねに存するを知って感謝するのである。満たされざる希望が、神に達するの途である」(『聴かれざる祈祷』、教文館、1958年、85頁以下)。
受難週の始まりに、私たちはこの御子イエス・キリストの壮絶な祈り、究極の祈りの姿をしっかりと心に刻みたいと思います。そして「聴かれざる祈祷」の苦痛中でこそ、実は私たちはもっとも深い三位一体の神との生ける交わりの中にいるのだということを経験したいと思います。そしてこの十字架をもってその愛を示してくださった御子イエス・キリストご自身を深く知り、この御子を賜るほどの愛をもって私たちを愛してくださった父なる神の計り知れない愛を受け取り、それを今日も証してくださっている聖霊の神のとりなしを、感謝をもって受け止めるものでありたいと願います。