主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターを迎えました。主にあって心からのご挨拶を申し上げます。イースターおめでとうございます。主イエスのよみがえりが私たちのやがてのよみがえりの希望となり、その希望の確かさが私たちに刻み込まれる最も大切な祝い日です。この朝、愛するお一人一人の主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.主イエスのよみがえりの朝に
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、いずれもそれぞれの筆遣いで主イエスの復活の朝の出来事を記していますが、私達は今朝、ルカ福音書が描くイースターの朝の様子に目を留めたいと思います。
1節。「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た」。愛する者の死を経験した者にとって意外なことと感じられることの一つに、それでも当たり前のように時間は過ぎて変わらない日常が繰り広げられるという事実があるでしょう。そこには死という出来事によって大きな断絶が生じているはずなのに、それでも当たり前のように時は過ぎ、大きな喪失があるのに、当たり前のように朝は来て、お腹も空き、やるべきこともある。そんな日常があるのです。主イエスの墓に来た女性たちの姿にも、悲しみの中で日常を生きる人間の姿があります。みな無言で、それぞれがそれぞれの役割を淡々とこなすために出かけていくのです。そしてそれが淡々としていればいるほどに、彼女たちの心に溢れそうになるほどの悲しみがあることが私たちにも伝わってくるのです。
ところが、そのような淡々とした静かな悲しみが一気に破られる時が訪れます。2節、3節。「見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった」。葬りのためにやって来た彼女たちの驚きはいかばかりだったでしょうか。主イエスの亡骸が「見当たらなかった」というのです。しかしこのことが、後に重要な意味を帯びてくることになります。4節から6節。「そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。するとその人たちはこう言った。『あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです』」。マタイやマルコでは墓で現れた御使いは一人ですが、ルカとヨハネはそれが二人であったと記す。そこには、この天の使いらが主イエスのよみがえりを証しする証人としての役割を帯びていることを示しているでしょう。
2.不在の喜び
ここで私たちは「主イエスのからだは見当たらなかった」ということを思い巡らしたいと思います。ルカの福音書が好んで用いるテーマの一つに「捜す、見つかる」という形式があります。15章に出てくる迷子の羊を捜す羊飼い、なくした銀貨を探す女性、放蕩息子の物語という三つのたとえ、そして19章のザアカイの救いの出来事などがその代表例です。これら「いなくなる」、「なくなる」、「捜し出す」、「見つけ出す」というテーマに共通している重要なことは「発見の喜び」があるということでした。しかしこれまでのテーマが「捜し出す」、「見つかる」、「喜ぶ」であったのに対して、今日の箇所では「捜す」けれども「見当たらない」、そして「ここにはおられない」となるのでした。これまでの箇所では捜して見つからないことはなかったのに、肝心のこの復活物語では「捜すけれども見当たらない」、「ここにはいない」となってしまうのです。私たちは今朝、ここに大切な真理が示されていることに注目したいのです。
たとえばルカの福音書15章の「放蕩息子のたとえ」では捜すのは神であり、捜されるのは失われた人間です。そしてやがてついに人は神によって発見され、見出され、そこには天における大いなる喜びが湧き上がるのでした。発見の喜びの物語です。ところが今日の箇所では捜すのは人であり、捜されているのは主イエス・キリストです。けれども彼らは主イエスを見つけ出すことができない。なぜなら彼はよみがえられたからだ、というのです。つまり、神が人を捜すことにおいては見つかることが喜びなのですが、人が神を捜すことにおいては見つからないことが喜びなのだと。主イエスの不在が喜びだというのです。なぜなら、私たちの神は死せる者の神ではなく生きている者の神であり、私たちを生かすための永遠の命を賜る真の神であられるからです。そのお方を死人の中に捜しても見出すことは出来ない。主イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と仰せになるお方なのです。
さらに主イエスを捜し出すことのできない女たちに御使いは命じます。6節後半から。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう』」。ガリラヤにおられたころにお話になったこととは、エルサレムへの旅の始まりの直前に語られた主イエスの受難予告の言葉です。9章22節。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目にはよみがえらねばならない、と語られた」。このように御使いはこの主イエスの受難と復活の約束の御言葉を思い出せ、思い起こせと促すのです。確かに主は語っておられた。しかも原文では「必ず」という強い言葉をもって受難とともに「よみがえらねばならない」ことをも約束しておられたのです。確かに今、彼女たちの目の前にあるのは空っぽの墓と二人の御使いの姿です。肝心の主イエスのお姿はいくら捜しても見つからない。しかしこのところにおいて御使いが命じるのは主イエス・キリストの御言葉のお約束を思い起こせ、ということなのでした。
3.臨在の喜び
そして8節。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」。彼女たちは思い出しました。思い起こしました。そればかりではありません。彼女たちはその約束を理解し、確信し、信頼し、その確信を携えて弟子たちや多くの人々のもとへと赴いて行ったのです。9節から。「そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちは、このことを使徒たちに話した」。この女性たちは主イエスの十字架の死を最後まで見届けた人々であり、また8章1節からを見ると、ずっと主イエスの付き従って来た弟子たちでした。それゆえに彼女たちはエルサレムを目指すあの主イエスの決意を間近に見て、そして主イエスの口から語られた受難と復活の予告の言葉を聞き、そしてその成就としての十字架を目の当たりにして悲しみに沈みかけていたその時、主イエスのよみがえりの約束を思い起こすことによって再び悲しみの淵から立ち上がることができたのです。そしてよみがえりの主イエスは彼らの前にお姿を現してくださるのです。
肝心の時に、肝心の人がいない。不安の中で心細さを思います。ヨハネ福音書20章を読むと、復活の日の夕べ、弟子たちも不安と恐れの中で、家の中に閉じ籠もり、鍵をかけ、息を潜めるようにしていました。しかし死に打ち勝ってよみがえられた主イエス・キリストはその真ん中にお出でくださいました。「すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ」。不在の喜びが臨在の喜びに変えられる。これがイースターの祝福です。 そしてこの祝福は先に主の御許に召された愛する者たちとの天での再会を待ち望むことのできる祝福でもあるのです。
今朝も墓前礼拝を前に内村鑑三のことに触れます。よく知られたことですが、内村はあるときから再臨の信仰に生きるようになります。ルツ子は、1894年の京都時代に、内村鑑三と妻静子との間に生まれた子でした。1891年の天皇不敬事件をきっかけに職を失い、最初に妻を失った内村は、失意のうちに各地を転々とした末に京都に移り住みます。そこで1894年に二人目の静子との間に娘ルツ子を授かります。京都時代の内村は厳しい生活の中にいましたが、そんな中に生まれたルツ子をとても愛しました。その娘が1912年1月12日に病気のため亡くなります。18歳の若さでした。この経験は内村に大きな痛みとともに、しかし新たな信仰の境地へと向かわせるものになったのです。葬儀の後、内村は「我らは四人である」という有名な詩を書き残しています。
我等は四人であつた、而して今尚ほ四人である。 戸籍帳簿に一人の名は消え、四角の食台の一方は空しく、四部合奏の一部は欠けて、 讃美の調子は乱されしと雖も、而かも我等は今尚四人である。
我等は今尚四人である。 地の帳簿に一人の名は消えて、天の記録に一人の名は殖えた。 三度の食事に空席は出来たが、残る三人はより親しく成つた。 彼女は今は我等の衷に居る、一人は三人を縛る愛の絆となつた。
然し我等は何時までも斯くあるのではない。 我等は後に又前の如く四人になるのである。 神のラッパの鳴り響く時、寝れる者が皆起き上がる時、 主が再び此地に臨り給ふ時、新らしきエルサレムが天より降る時、 我等は再たび四人に成るのである。
『内村鑑三全集』第19巻、46頁
よみがえりの主は、痛み、悲しむ者たちに「平安があなたがたにあるように」と言ってくださいます。今日、愛する兄弟姉妹おひとりひとりのもとに、この復活の主がお出でくださっています。そして主イエスの十字架の傷跡を前に「弟子たちは主を見て喜んだ」とあるように、私たちもこの主にある喜びに包まれることを信じます。そしてこの主イエスにあって、やがてのよみがえりの朝を待ち望みながら、この礼拝から遣わされてまいりましょう。
今週も、復活の主が、皆さんとともにいてくださり、皆さんとともに行ってくださいますように。