8月第四主日を迎えました。まだまだ残暑が続きますが、そんな中にも風が変わって、少しずつ秋の気配を感じ始めてもいます。先週の礼拝では北條輝先生が創世記12章のアブラハムの旅立ちの場面からみことばを取り次いでくださいました。また昨日のCSのイベントも楽しく豊かな時となったことを感謝します。夏の一つ一つのプログラムが祝福されて、実りの秋へと進んでいきます。愛する皆さんお一人一人に続けて主の祝福がありますように。
1.結び目の祈り
今朝でエペソ人への手紙3章を読み終えることになります。全部で6章からなるこの手紙のちょうど折り返し地点。内容的にも大きな区切りとなるところです。ここでエペソ書全体の構造を今一度確認しておこうと思いますが、この手紙は大きく前半と後半の二部構成になっています。前半が1章から今日の3章の終わりまでで、私たちが信じている福音がいかなるものかを教えていました。そして次回からの4章から6章までが後半で、福音を信じた者の生き方がいかなるものかを教えます。「教理篇」と「実践編」と言ってよいでしょうし、「信じること」と「生きること」と言ってもよい。大切なのは、これら二つは分かつことができないし、また分かたれてはならないということです。
しかししばしば信じることと生きることの間には距離が生まれ、ズレが生じてしまいます。信じたように生きたいと願い、生き方をもって信じていることを証しする生き方を祈り願いつつも、それはあくまでも理想で現実はなかなかそう行かない。そこからいつしか本音と建て前の使い分けが生まれてしまう。パウロは初代教会の信仰者たちの中にもそのような戦いの姿を見ていたようです。それで信じることと生きることの分かたれない信仰のあり方、福音の信じ方、信じた者の生き方を教えるのです。その代表的なものはローマ書ですが、このエペソ書も同じような構造になっているのです。
そこで今朝の箇所に注目したいのです。20節、21節。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」。信じることと生きることを結び合わせるもの、それが「祈り」です。パウロは膝をかがめて祈り始め、16節から19節で三つの祈りを祈ってきました。第一の祈りは「あなたがたの内なる人が強められるように」、第二の祈りは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように」、そして第三の祈りが「神の満ちあふれる豊かさにまであなたがたが満たされるように」。この祈りの締め括りとして、信じることと生きることをしっかり結び付ける結び目の祈りをささげているのです。
2.教会の祈り
この祈りは、この手紙が終わるかのようにすら思える頌栄の祈りです。そして最後に皆が心を合わせて「アーメン」と唱和する祈りです。新約聖書に収められているパウロの13通の手紙にはテモテ、テトス、ピレモンといった個人に宛てたものもありますが、多くは教会に宛てられた手紙です。エペソ書は地中海沿岸各地にあった異邦人教会に回覧された手紙でした。そこでは礼拝の中で公的に読み上げられる、いわば説教のような役割を果たしていたと言われます。そのようにして手紙が朗読される途中、祈りのことばが聞こえてくる。恐らく礼拝に集う会衆たちはこれが祈りだと気付いた時、自然と居住まいを正し、背筋を伸ばし、顔を上げ、ついには腹に力を込めて一緒に声を合わせて「アーメン」と唱和したのではないでしょうか。
ここには教会の祈りの姿がよく現れています。礼拝はもとより、何をしていても、どんな時間を過ごしていても、祈りが始まれば立ち止まり、動いていた手を止め、目を閉じ、口をつぐみ、皆の心がある一点に向かう。祈る時に皆が一つになる。誰かが祈る声が聞こえてきたら、自分も祈りの中に招き入れられ、祈る先におられるお方の前に引き出され、自ずと祈りの姿勢を取るようになる。こうしたことが身についた振る舞い、習い性、何気ないところに現れるキリストのからだの立ち居振る舞いに、教会の霊性、教会の信仰が現れるのです。祈りにおいて一つにされる。これは単なるスローガンでなく、私たちの現実です。ささげられる祈りに心を合わせ、最後に一緒に「アーメン」と唱和できる。これは大きな励ましなのです。自分一人では揺らぐ思いや疑いが拭えないような祈りでも、教会の祈りに連なる時に、そしてともに「アーメン」と力強く唱和する時に、その「アーメン」によって私自身が励まされ強められ、揺らぐ心や疑いの思いが少しずつ確信へと変えられていく。ここに教会の祈りの幸いがあります。
そうであれば、私たちも一緒に祈る時、「アーメン」を大切に心を込めて唱和したいと思います。まさに「その通り、私もそう信じます。この祈りは私の祈りです。」こうした信仰の告白を込めて「アーメン」と力強く唱和しましょう。ハイデルベルク信仰問答の第129問がこう言う通りです。「『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」。礼拝で、集会で、祈りがささげられていたら、まずはその場に立ち止まり祈りに心を合わせましょう。誰かが誰かと祈っていたら、妨げにならないよう配慮しましょう。そっと後ろで心を合わせるだけでもよい。とりなしの手を置きましょう。こうした小さな祈りの心が集められてこそ、教会の大きな祈りも動き出すでしょう。
3.自分を超え出る祈り
こうしてささげられる教会の祈り、信じることと生きることを結び合わせる祈りとはどのような祈りでしょうか。もう一度、20節、21節。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」。
ここでささげられている祈りを一言で言えば「自分を超え出る祈り」です。14節から19節までで「内なる人が強められ」、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ」、「神の満ちあふれる豊かさにまで満たされるように」と祈った教会は、それゆえに実に大胆にも「私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に」祈っています。これはもはやパウロ一人の祈りではありません。パウロとともに祈りに心を合わせる教会の祈りであり、今朝、ともにある私たちの祈りです。この祈りの中で、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできるお方の御力が、今この私たちのうちに生きて働いていることを信じて祈っているのです。
神の大能の力の働きは私たちの外側ではなく、今日、私たち教会を通して働いている。その消息はこうです。神は大能の力を御子キリストのうちに働かせてくださり、御子キリストが教会のかしらとなってくださり、この御子キリストが聖霊によって今、私たちをご自身のからだとして生かし、用い、教会にご自身の力が充満させてくださっている。まさに「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられる」のです。この三位一体の神の御力とその現れを信じる。そして何よりも三位一体の生ける神ご自身を信じる。教会の祈りはこの信仰の確認であり、またそれゆえの信頼の証しであり、そしてこの神への信仰の告白です。この祈りの中で私たちは自分たちの常識を超え出る。自分たちの計算を超え出る。そして自分たちの信仰をさえ超え出ることができるのです。
4.究極の祈り
実に不思議なことです。しかしキリストの教会はそのような不思議な奇跡を歴史の中で繰り返し経験してきました。祈らなければ決して経験できないことです。でも祈っていけば経験することです。それはすべてが私たちの思った通りになる、願った通りになるということ以上の経験です。単なる成功の原理とか繁栄の法則といった安っぽいものをさえ超え出るものであり、生ける神との関係を何かの法則や因果関係で結ぶような世界をさえ超え出る経験です。まさに「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」ご自身を経験する。それが究極の祈りの経験です。
私たちがこの神さまを信じて祈る時、本気で信じて祈る時、私たちの中から「信仰と生活」の分離、「信じることと生きること」の使い分けは消えていく。そしてコロサイ書1章29節で「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって労苦しながら奮闘しています」とパウロが記したように、この三位一体の神を信じるからこそ、そしてこの神の御力が私たちのうちに働くことを信じるからこそ、喜んでキリストの力によって労苦しながら奮闘することができるのです。
祈ることは私たちを安易な道に進ませるものではありません。本気で祈れば、祈ったゆえに果たすべき使命が見えてくる。祈るからこそ私たちの行うべき業が示される。三位一体の神が働かれるなら、私たちも働かなければなりません。神が働かれるので、私たちも喜んで働くことができる。そうして信じて生きる私たちの究極の祈りはこれです。「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」。