6月も半ばを迎えようとしています。兄弟姉妹方の中にも病の床にある方、回復された方、生活の拠点を移される方、ご家族を助け、支える方が多くおられますが、そのようなお一人一人を今日も力強い御手をもって支え、励まし、助けてくださる生ける神のみことばに生かされて、新しい歩みへと遣わされてまいりましょう。皆さん一人ひとりに主の豊かな祝福がありますように。
1.史上最大の「しかし」
聖書の中には、事柄全体をたった一言で根本から覆すほどの力を持つことばがあります。その代表的なものの一つが、今日開かれているエペソ書2章4節の「しかし、あわれみ豊かな神は」です。この「しかし」ほど大きな、世界史的な意味を持つものはない。史上最大の「しかし」と言っても決して言い過ぎではありません。なぜそこまで言えるのか。なぜこの「しかし」にそれほどの力があると言うのか。あらためて2章1節から読んでみましょう。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつて自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
ここに記されるのは「かつて」の人間の姿です。自分では「歩んでいる」、「生きている」と思いながら、実際は「自分の背きと罪の中に死んでいた」。自分ではこの世の流れの中を巧みに泳いでいると思いながら、実際には「空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいた」。自分では思い通りに生きられる、自分は自由だと思いながら、実際には「肉の欲のままに生き、肉と心の望むままを行い」、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」の一人であった。「あなたがた」も「私たち」も誰一人の例外もなく、これが私たちの深刻な現実だと言うのです。
けれどもこれが結論ではない。「しかし、あわれみ豊かな神は」まことに深刻な私たちの現実を覆してくださいました。これが神の恵みの御業です。ここに神が与えてくださる「救い」とは何かが端的に、そして見事に語られています。「救い」とは、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」ということです。しかもそれは「あわれみ豊かな神」 の「私たちを愛してくださった大きな愛」による「恵み」の御業です。ここはキリスト教信仰の核心であり勘所です。ですからよく心に刻んでおきたい。もう一度確かめましょう。救いとはキリストとともに生かされることであり、それはそのために私がする何かの行い、何かの努力、何かの犠牲、何かの功徳によらない、あわれみ豊かな神の、大きな愛による、恵みの御業なのです。
2.キリストにある生
もう一歩踏み込んで「キリストとともに生かされる」とはどういうことでしょうか。4節から6節までを読みます。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」。ここで注目したいのは「ともに」という言葉が繰り返されている点です。「キリストとともに生かしてくださいました」、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ」、「ともに天上に座らせてくださいました」。ここは面白い言葉遣いがされているところで、「ともに生かす」、「ともによみがえらせる」、「ともに座らせる」というように、それぞれの言葉に「ともに」を意味する前置詞が付けられているのです。つまりこういうことです。「キリストとともに生かされる」とは、罪と背きの中に死んでいた私たちがいまや「キリストとともによみがえらされる」ことであり、空中の権威を持つ支配者に屈服させられていた私たちがいまや「キリストとともに天上に座らせられる」ということだと。そこには罪に対する完全な勝利、悪しき力に対する圧倒的な勝利の姿が示されています。しかもこれらはいずれも「すでにそうなった」という表現です。「やがて、いつかそうなったらいいな」という願望や期待でなく、「すでに実現した」私たちの姿なのです。
そうするとさらに踏み込む必要があるでしょう。今、私たちがキリストとともに生かされているこの現実はいかにして始まり、いかなる次第で起こったのか。「ともに生かす」ということばはここともう一カ所、コロサイ書2章で使われており、あわせて読んでおきたい大事なことばです。2章12節、13節。「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました」。ここでは「キリストとともに葬られ」、「キリストとともによみがえらされ」、「キリストとともに生かしてくださった」と言われます。今日のエペソ書と並べてみると「キリストとともに生かされる」とは、「キリストとともに葬られ」、「キリストとともによみがえらされ」、「キリストとともに天上に座らせていただいた」ことだと言うのです。ではそのようないのちはいかにして始まったのか。コロサイ書はそれを「バプテスマ」すなわち洗礼においてだと言います。私たちが洗礼、バプテスマを受けたのは、キリストとともに死に、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに天上の座に着かされたということであり、それがキリストとともに生きることなのです。
3.キリストとの結合
では私たちが洗礼によってともに生きるものとされたキリストはいかなるお方でしょうか。そこで重要なのが、先にエペソ書の中心的主題だと申し上げた1章19節から21節です。19節でパウロは「神の大能の力の働きがどれほど偉大であるかを、知ることができますように」と祈り、20節でこう言いました。「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においてもとなえられるすべての名の上に置かれました」。私たちがともに生かされるキリストとは、神の大能の力の働きの現れとしてのキリストであり、このキリストとともに天上の座にすでに私たちも着いている。「天上の座」とは「王なるキリスト」のおられるところです。全能の父なる神の右に座しておられるキリストとともに、私たちも天に座を与えられている。
これは実に驚くべきこと、むしろにわかに信じ難いことでしょう。私たちが生きているこの現実、悩み多く、憂いの絶えないこの現実の日々のどこが、天上に座していると言えるものなのか。国と国、民族と民族の争いは止まず、地上の権力者が自らの力を競い合い、金にモノを言わせて世界を買い漁り、互いを敵意と蔑みと憎悪で仕切る壁があちらこちらに築かれ、天にまで届く新たなバベルの塔を建て始めている今のこの時代に、そして空中の権威を持つ支配者が我が物顔で跋扈する世界の中に、私たちも埋もれそうになっています。
しかしここが信仰の勝負所です。私たちの目の前にある現実と、王なるキリストとともに生きる現実と、どちらが本当の現実なのか。そこを見誤ってはならない。信仰の眼を見開き、信仰の耳を澄ませ、信仰の想像力、洞察力を働かせ、諦めや開き直り、冷ややかな薄笑いを振り払い、王なるキリストとともに立ち、王なるキリストとともに歩み、王なるキリストとともに生きる。そうして王なるキリストとともに働いて悪しき力に勝利していく。それが私たちのキリストとともに生きる現実であり、王なるキリストとともにこの世界に働きかけ、仕える生き方なのです。パウロは第二コリント4章8節以下で言います。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちはイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです」。なぜこうまで言えるのか。それは私たちとともに生きるお方が「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においてもとなえられるすべての名の上に置かれた」王にして勝利者なるキリストでいらっしゃるからです。
4.限りなく豊かな恵みを
このキリストにある現実を証しするのが、私たちの使命、教会の使命です。7節。「それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした」。私たちがキリストを証しし、福音を宣べ伝えるのはなぜか。それはあわれみ豊かな神さまの大きな愛、キリスト・イエスにあって与えられた慈愛、人知をはるかに超えたキリストの愛によって、キリストとともに生かされるという「限りなく豊かな恵み」、「計り知れない恵み」を今のこの世界に伝えるため、そして来たるべき世々に示すためなのです。
病の床で辛い闘病の中にあっても、他の病む人のために祈ることができるとき、そこで私たちはキリストとともに世界に働きかけ、仕えているのです。歳を重ねてからだのあちこちが弱っても、次の世代を生きる人々を励まし、彼らのためにとりなすことができるとき、そこで私たちはキリストとともに世界に働きかけ、仕えているのです。仕事の重圧、子育ての悩み、親との確執、自分との向き合いの中で疲れたり、苛ついたり、心折れそうになる時にも、それでも心を挙げて主を賛美し、礼拝するために御前に出るとき、社会全体が一つの方向に勢いよく流されていく中に、流れに棹さすようにして一人で立つ孤独の戦いを強いられるとき、しかし私たちは望みを抱いて喜ぶことができる。「死にそうでも見よ、生きている」と言うことができる。キリストにある現実として告白的に生きることができる。そうやって王なるキリストとともに、天の座にあってこの世界に働きかけ、仕えているのです。
地上では取るに足りない人、貧乏くじを引いた人、評価に価しない人と扱われても、なくてならない一つまみの地の塩、灯火のような世の光としての使命を果たしている。キリストとともに生きる生とは、王なるキリストとともにこの世界に働きかけ、仕えていく生き方なのです。私たちは、限りなく豊かな恵みを今と来るべき世々に示すよう召されています。この「キリストとともに生きる」歩みを今日から新しく始めてまいりましょう。キリストに結び合わされキリストとともに生きる生に、神は私たちを招いておられます。