聖霊降臨節、ペンテコステの主日を迎えました。十字架に架かられ、三日目によみがえられて私たちの贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストが、天へと挙げられて父なる神と御子のもとから助け主の聖霊がおいでくださった。ペンテコステはこの聖霊が降られ、教会が生み出され、福音の宣教に遣わされていった大切な記念のときです。私たちも聖霊の力を受け、福音を宣べ伝え、かしらなるキリストに向かって建て上げられていく教会として、新しく遣わされてまいりましょう。愛する皆さんに主イエス・キリストの祝福を祈ります。
1.神の大能の力の働きとしてのキリスト
「イエス・キリストをいかなる方と信じ、告白するのか」。ここにキリスト教信仰の核心があります。教会はイエス・キリストを「神の独り子」と信じ、このお方を「主」と告白してきました。世界の教会の信仰のことばである「使徒信条」に、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」、「私はそのひとり子、私たちの主イエス・キリストを信じます」と告白されるとおりです。「イエスは主である」とは、イエス・キリストがまことの神、まことの救い主と言い表す最も重要な信仰の告白です。
その上で、聖書はさらにイエス・キリストについていくつかの呼び名、称号を用います。そこで今朝は主イエス・キリストの呼び名、称号として二つのことばに注目します。ひとつは「王なるキリスト」、そして今ひとつが「かしらなるキリスト」です。1章20節、21節。「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」。
パウロは19節で「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」と祈りました。そして20節、21節で神の大能の力がどのように働いたかを、二つの大きな出来事によって示すのです。その一つが「キリストを死者の中からよみがえらせた」こと、すなわち主イエスの「復活」の出来事です。そしてもう一つが「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた」ということ、すなわち主イエスの「昇天」、「着座」の出来事です。これら「昇天」、「着座」という出来事が指し示すのは、「王なるキリスト」のお姿と言ってよいでしょう。
2.「王」なるキリスト
プロテスタント教会は私たちの贖い主イエス・キリストを「預言者」、「祭司」、「王」と呼ぶことを大切にしてきました。そのうち「預言者」、「祭司」ということはしばしば触れられますが、「王」なるキリストに触れられることはあまりありません。しかしイエスを「王」と信じ告白することは、イエスを「主」と信じ告白することと並んで極めて重要なことです。なぜならそこでは、私たちが誰を「主」とし、誰を「王」とし、誰の声に聴き、誰に従うのかが問われるからです。
「主」という称号は一般的にはローマ皇帝に対して用いられるものでした。皇帝崇拝をもって帝国内の統一を維持しようとするローマに対抗して、初代教会のキリスト者たちは「まことの主はイエス・キリスト」と言い表したのです。その後の時代も時の権力者たちが自らの権力を絶対化し、時には神格化さえしようとした際に、「イエス・キリストは主である」、そして「イエス・キリストは王である」との告白がまことに重要な意味を担ったのでした。
21節の「すべての支配、権威、権力、主権」とは、地上の政治的・軍事的・経済的な支配者、権力者とその背後にある霊的な力を指していることばで、6章12節の「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろも悪霊に対するものです」とあるように、それらの背後には悪しき霊の働きがあると聖書は教えます。
実際に歴史を見ても悪魔的な為政者は度々登場しましたし、今の時代も自らの力を隠すことなく誇示し、欲しいままに振る舞う支配者、権力者が跋扈しています。そういう時代に生かされている教会として、私たちは目覚めてよく目を凝らし、耳を澄まし、事柄の本質を見極める霊的な洞察力と判断力を働かせ、まことの主にして王なるお方をはっきりと指し示し、イエス・キリストは主であり王であると告白し、このお方にのみ従う者として生きることばと生き方を身につけなければなりません。
3.かしらなるキリスト
さらに22節。「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました」。ここでキリストが教会に与えられた「かしら」であると言い表されています。「教会はキリストのからだである」とは、私たちも繰り返し教えられる大切な事柄ですが、「キリストが教会のかしらである」ことは、しばしば忘れ去られたり、後回しにされたりしてしまうものです。わかりやすく言えば「教会は誰のものか」がいつも鮮明にされている必要があるのです。
教会のかしらはイエス・キリスト。これを単なる当たり前の表現、キャッチフレーズのようにして済ませてはならないでしょう。むしろ教会の営みのあらゆることを通して、この事実が明らかにされていくことが、教会が教会になっていくことなのです。私たち日本同盟基督教団の信仰告白第七項は教会について次のように告白します。「教会は、聖霊によって召し出された神の民、主イエス・キリストをかしらとするからだであり、羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れである」。教会がまことに聖霊による神の民、キリストをかしらとするからだであり、そうあり続ける現実は、「羊飼いの御声にのみ聴き従う」ことによって成し遂げられていくものです。そのためにも人のことば、人の考えに支配される教会になってはならない。いつも教会のかしらなる主イエス・キリストの御声に聴き従う群れとなっていきたいと願うのです。
しかもその際に覚えたいのは、私たちの教会のかしらは、天地万物をその足の下に従わせる「王なるキリスト」であるという驚くべき事実です。確かに地上の教会は小さな群れです。日本の教会はとりわけそうです。私たちの教会もその群れの一つです。しかしどれほど小さく、弱く、貧しい教会であっても、そのかしらなるお方は大いなるお方、すべての支配、権威、権力、主権の上におられるお方である。そしてこの王なるキリストが私たちのかしらとなってくださり、「小さき群れよ、恐れるな」と励まし、そして助け主なる聖霊を送っていてくださる。この驚くべき事実を繰り返し確認し、感謝とともに、聖霊の励ましをしっかりと受け取りたいと思います。
4.満たしてくださる方
最後に23節。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」。イエス・キリストを主と信じ、天地万物の王にして教会のかしらと信じ告白する、キリストのからだなる教会は、ではどのような姿をもって現れるのか。「すべてのものをすべてのもので満たす方の満ちておられるところ」だと。かしらなるキリストから溢れ出る祝福によって満ちあふれる姿。それがキリストのからだなる教会だというのです。
「満ちている」とは、「充満している」、「いっぱいいっぱいになっている」、「表面張力でコップの縁にまで盛り上がるほどになっている」。そんな豊かなイメージのことばです。いのちの泉の源泉なるキリストの愛、喜び、自由、平和、祝福、いのちが充満し、満ちあふれるところ、それが教会だと。そう言われてどうでしょう。「ピンとこない」と思われるでしょうか。「私たちの教会はそんなものではない」と言われるでしょうか。「教会を信ず」という告白がここでチャレンジを受けるでしょう。
昇天のキリスト、着座のキリスト、王なるキリストは、しもべの姿をとり、天から地の最も低いところに来てくださったキリスト、貧しき憂い、生きる悩みをつぶさに味わい、十字架の死にまでも従われたキリスト、そして苦難から栄光へと挙げられたキリストです。ヨハネの黙示録は、天の王座に座るお方を屠られた子羊として描きました。ただの権力者、ただの支配者ではない。私たちの王にしてかしらなるキリストは、苦難から栄光へと進まれた子羊なるお方、ロバの子の背に乗り、十字架に向かわれた貧しき者、弱き者、罪ある者、力なき者の救い主なるお方です。だからこそこのお方は、私たちが何に飢え渇き、何に恐れ、何を必要としているかをよくご存じで、その私たちを満たしてくださるお方なのです。
教会はこのキリストをかしらとするキリストのからだです。満たしてくださるお方はキリスト。その信仰に立つ群れとしてこのペンテコステの礼拝から新しく歩み出したいと願います。午後には教会セミナーで「伝道」について学びます。私たちは主の道を伝える教会でありたいと願いますし、ますます主の道を伝える教会になりたいと願う。ひとりでも多くの方にこの喜びの福音をお届けする教会でありたいと願う。多くの方が主に導かれ、救いに与ることを願う。教会は人数ではないとよく言われますが、しかし主イエスを求める人で、主イエスを信じる人で、主イエスを礼拝する人でこの会堂がいっぱいになることを願っています。まずは毎週の礼拝に50名が集うことが祈りです。さほど難しいことではありません。まずは私たち一人ひとりの礼拝の生活が確立することです。
また午後のセミナーの後には会堂委員会が開かれます。今年の教会総会で私たちは新しい会堂を建てること、そのために祈り、ささげ、準備すると決議しました。その新しい一歩が始まりますが、昨年秋の第1回セミナーでも申し上げたように、会堂の老朽化や耐震性への対処が一番の目的ということでは会堂は建たない。むしろ会堂に人が溢れて入りきらなくなる。そういうところを通ってはじめて実現していくものでしょう。また会堂について祈り、話し合うときに、まずお金のことが最初に頭に浮かぶようでも会堂は建たない。満たしてくださるお方は誰なのかを信じ、このお方に信頼する信仰が強められていくことで、教会はキリストのからだとして成長していくでしょう。
ペンテコステの朝、私たちは神の息によって新しい息吹を吹き込んでいただき、王にしてかしらなる主イエス・キリストを目指して歩み出す。聖霊の風を受けてしなやかに、健やかに、確実に、かしらなるお方に向かって歩み出す。私たちを満たしてくださる主イエス・キリストにいよいよ信頼し、私たちを満たしてくださる方が満ち溢れる教会となっていくことを祈り求めてまいりましょう。