主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターの朝を迎えました。主にあって心からのご挨拶を申し上げます。イースターおめでとうございます。主によって呼び集められた愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。

1.主のよみがえりを祝う

今年は4月第一主日がイースターということで、新しい歩みの始まりに相応しいカレンダーとなりました。今日から礼拝の式順が新たになり、新鮮な思いで礼拝に集っています。去る金曜日の受難日礼拝ではヨハネ黙示録5章に記された天上の礼拝の光景を思い巡らしました。屠られた子羊イエス・キリストを賛美する礼拝は、今、ここでおささげしている礼拝と繋がるものです。私たちも新しい心で主をあがめたいと願います。

今日の一番の喜びは、この礼拝において洗礼式が執り行われることです。古代教会の時代、洗礼式はイースターの朝に執り行われていました。キリストのよみがえりのいのちに結ばれて新しいいのちが誕生する。それこそが洗礼式の意味であり、また喜びであったからです。25年の求道生活を過ごしてこの朝、洗礼を受けられるK兄、この日のために祈り続けて来られたご家族、ご一族、そして神の家族である教会に、主が豊かな祝福を注いでくださる恵みに感謝します。牧師にとっても何よりの幸いは、何と言っても一人の方が主に救われて、信仰を告白する場に立ち会えること、そして洗礼式を執り行えることです。個人的なことですが、私たち夫婦にとっても昨年4月に多磨教会に赴任して、それからようやく1年が経ち、この朝に洗礼式を迎えられたことは本当に大きな喜びであり、主からの慰めであると感謝しています。

ぜひこの年、主イエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、信仰を告白し、洗礼の恵みにあずかる方が続けて起こされるように祈ります。この礼拝にお集いで、まだ洗礼を受けておられない方は、ぜひ今日の洗礼式をよく見ていただきたい。ここで何が起こっているのか。ぜひ目をこらしてみ留めていただきたいと思います。すでに洗礼を受けてキリスト者として歩んでおられる皆さんには、新鮮な思いでご自分の受洗の時を思い起こしていただきたい。特に洗礼に先立つ誓約のことばを深く心に刻んで、信仰の初心に立ち返り、新しく歩み始めるときとしていただきたいと思います。

2.約束を思い起こそう

春休みに石川県小松市で開かれた中高生キャンプで洗礼についてお話しする機会があり、「洗礼は入学式のようなもの」と言いました。信仰のことがすべて分かって、求道生活の卒業式のように洗礼を受けるというのではなく、ここから主イエスと歩み始める信仰の学校の入学式、それが洗礼ということだと。不安もあり、緊張もあり、しかし期待もあり、喜びもある。そうやって信仰の一歩を踏み出していくのです。

しかしそうやって歩み出してすぐに経験することがある。主イエスを信じて歩む途上にあっても、しばしば私たちは恐れにとらわれるという経験です。不安にとらわれます。本当にこの道で良いのだろうか。主はともにいてくださるのだろうか。この道を選び取ったのは失敗だったのではないだろうか。そんなことを考える自分の信仰の弱さ、頼りなさを覚えつつも、しかしそのような心があることを打ち消すことができない。私たちの足取りはおぼつかなく、その歩みも頼りないものです。

主イエスがよみがえられた日曜日の夕刻、都エルサレムから逃げ去るように足早に進む二人の弟子の姿がありました。13節から16節。「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった」。このエマオに向けて旅する二人の心にあったのは、大切な心の拠り所であった主イエス・キリストが十字架に死なれ、墓から盗み出され、もはや私たちとともにはおられないという事実です。

しかしそんな二人のもとによみがえりの主イエスが近づいて行かれ、彼らとともに歩み始められるのです。ところが彼らはその旅人がよみがえりの主イエスとは気づかない。それでこの間の出来事を話して聞かせるのです。読んでいるこちらがハラハラするような場面です。17節から24節。「イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。『エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。』イエスが『どんなことですか』と言われると、二人は答えた。『ナザレ人イエスのことです。この方は神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラセルを解放する方だ、と望みをかけていました。実施、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、というのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした』」。

読んだとおりのことで、細かな説明は省きますが、とにかくここでのポイントは、二人の弟子の言葉はすべて「過ぎ去った過去を語る」言葉だという事実です。今、よみがえられた主イエスを目の前にしながら、彼らは過去に生きてしまっている。その理由をルカは「二人の目がさえぎられていた」からと説明します。それは肉体の目のことでなく、心の眼の問題、信仰の問題です。主の復活を知ることがなければ、私たちは希望に生きることができない。未来に向かって開かれて歩むことができない。いつまでも過去に縛られて、失望と落胆の中を歩むほかない。それは信仰の持つ希望や喜びとは対極的な姿です。

そんな彼らに主はこうお語りになりました。25節から27節。「『そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」。さらに30節、31節。「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった」。ここで主イエスはみことばを説き明かし、聖餐式を執り行われました。その時に、彼らのさえぎられていた目が開かれ、目の前におられる方がよみがえりの主イエス・キリストだとはっきりわかったのです。

3.心燃えて

御言葉の説き明かしとパン裂き。それは今日ここで私たちが行っている礼拝そのものの姿です。今朝、洗礼式に続いて聖餐、主の晩餐をともに祝います。洗礼を受けるK兄もはじめて陪餐されます。まさしくこの礼拝において、私たちは復活の主イエス・キリストをはっきりと信仰の目をもって見、このお方と親しく交わることがゆるされる。これこそが礼拝において主の日毎に起こる最も大切な出来事なのです。彼らは決して劇的な体験をしたわけではありません。主イエスの口から淡々と語られる御言葉の説き明かしを聞き、主の手によって裂かれたパンに与ったときに、彼らははっきりと主イエスと相まみえることができたのです。

洗礼を受けて信仰の道を歩み始めても、恐れることがある、迷うことがある、立ち止まることがある。しかしそんな私たちのために主が備えてくださったのが主の食卓です。洗礼は生涯一度きりのことですが、主の晩餐は繰り返しあずかり続けるものです。主がともに歩んでくださる信仰の道の途上で繰り返し繰り返し、主の恵みにあずかり続けるのです。そのような私たちの信仰の旅路の姿を二人の弟子の姿が印象深く示しています。彼らの目が開かれた途端に、主イエスのお姿は彼らの前から消え去るのですが、しかしもはや彼らは主イエスの不在を嘆くことはない、絶望し、途方に暮れることもない。主はどこにおられるのかと訴えることもない。とぼとぼと失意の中を歩むこともない。今や彼らは立ち上がり、新しい歩みをはじめることになる。

32節、33節。「二人は話し合った。『道々お話くださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った」。主の語りかけを聞く時、聖書の説き明かしに聞く時、心が燃える。これは本当に素晴らしい恵みの経験です。その証しとして、彼らはすぐさま立ち上がると、恐れを捨て、危険を顧みず、今さっきまで歩んできたばかりの道に立ち、再びにエルサレムに向かって歩き出すのです。時は真夜中。とても旅をする時間ではありません。しかし彼らの燃える心は、もはや彼らをエマオの村に留めることはできなかったのです。彼らはきびすを返して、今来た道、今、逃げるようにして下ってきた道を、今度は主の復活の証し人として歩き始めるのでした。彼らが歩み始めたエルサレムへの道、それは夜の暗闇の中ですが、しかし彼らの心は希望と喜びに溢れておりました。昼の光の中を歩んでいた時には失望と落胆の心であった彼らが、今や夜のとばりの中を希望と喜びに溢れて進んでいくのです。なぜならそこには復活の主が御言葉の約束においてともにいてくださるからなのです。

復活の主イエスを信じて歩み始める道は、主がともにいてくださり、ともに歩んでくださる道です。終わりまで私たちを離れず、捨てず、時には私たちを背負うようにしてその道を歩ませてくださる。だから私たちは恐れを振り払い、不安を捨て去って、「主がついていればこわくはない」と、復活の主イエス・キリストとともに歩み出すことができるのです。