3月第四の主日を迎えました。来週からは受難週に入り、4月第一主日の4月5日に主イエス・キリストのよみがえりを祝う復活節、イースターを迎えます。教会も4月からいくつかの新しい変化に向けて備えています。主イエス・キリストのいのちに生かされる私たちとして、みことばに養われ、キリストのからだの全体が生かされていくことを願います。今朝も愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように。
1.「終わりの事柄」について
昨年の11月から続けてきた「私たちの信仰」と題してのシリーズ説教の最終回を迎えました。「聖書」、「神」、「人間」、「罪」、「キリスト」、「救い」、「教会」、そして先週に続いて「終わりの事柄」、「終末」について学んでおきたいと思います。
私は牧師としてこれまでお仕えしてきた教会で、「聖書を説くこと」と「教理を説く」ことを大事な務めとしてきました。朝の礼拝、夕の礼拝、週日の祈祷会その他の機会を用いて繰り返し聖書を説き、教理を説くことで、キリストのからだである教会の「足腰を鍛えよう」と申し上げてきました。いずれも地味で地道なことなのですが、しかしそうしてコツコツと聖書を学び、教理を学ぶことで体幹が鍛えられ、足腰が強められ、よろめくことがあったり、つまずくことがあったりしても、それでばったりと倒れてしまうことのない、二の足が出る、踏ん張りが効く、なんとか支えられる、そういうキリストの身体が整えられていくことを願っているのです。その意味で今日のテーマも含めて、これからも折々に皆さんとともに教理の学びを続けたいと思います。
前回も申し上げたことですが、聖書の語る「終わりの事柄」の中心は、世界の滅亡、世界の破滅というようなストーリーでなく、むしろ「神の救いのご計画の成就」、「神の始められた世界の完成」です。それはしばしば「新天新地」の成就、完成とも言われるものです。そしてこのことを語るのが、今日のヨハネ黙示録21章でした。1節。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」。
2.新しい天と新しい地
終わりの事柄を学ぶということは、私たち一人ひとりの人生に「終わり」があり、またこの世界にも「終わり」があるということを深く自覚させるものです。「終末」の教えも「個人的終末」と「世界的終末」と区別して、人の死の問題、そして被造世界の終わりの問題を扱うのです。
私たちの人生の終わり、それは「死」の問題です。「死」とは何かというのも極めて大きなテーマですが、「死」にはただ生き物の死という意味のみならず、その死が及ぼす意味の拡がりがあります。言い換えれば、死は、死にゆく本人の問題であるのは当然のこと、しかしそれだけではない、その人が生きた社会、家族、とりわけ愛する者たち、残して行く者たちにも大きな影響を与えるものであり、残された者たちにとっては死がもたらす「別れ」は大きく、重く、そして長くその後の人生にも影響を与え続けるものでしょう。難しい言い方をせずとも、私たちの人生の経験の中で「別れ」がもたらす影響の大きさを思います。そして別れの中でも最も大きな影響を及ぼすのは、愛する者の死ということでしょう。皆さんの中にもすでにそのような経験を重ねておられる方がいます。愛する者が、大切な存在がある日を境に目の前からいなくなる。これほど悲しく、寂しく、つらいことはありません。
しかし主イエス・キリストにある者は、死の悲しみ、寂しさ、つらさを越える希望があると聖書は語ります。主イエスのよみがえりは「初穂」であると言われます。「初穂」ですからそれに続くよみがえりがある。毎週の礼拝で告白する「使徒信条」で、「私はからだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」と告白するように、主イエスがよみがえりの初穂であられるということは、それに続く者として、私たちにもやがてのよみがえりが約束されており、天の御国における永遠のいのちの希望が与えられているということなのです。それが実際にどのようなものであるか、とても気になります。「天国」とはどういうところだろうか。愛する人とちゃんとそこで再会できるだろうか。自分は何歳のからだでよみがえるのだろうか。あれこれと考え出すと興味は尽きません。しかしこの点で聖書の語り口は極めて抑制的です。ですからあまりあれこれと詮索することは控えなければなりません。しかし聖書がはっきりと語っていることについては、よく聴き取っておきたいと思うのです。そこでもう一度、1節、2節を読みます。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降ってくるのを見た」。
ヨハネは黙示録の中でパトモスに島流しに遭いながら、主から特別の幻を見せられます。その中でも究極の幻が、この「新しい天と新しい地」の光景でした。その中心にあるのは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降ってくる」姿でした。私たちはなんとなく「天国」というと、空の彼方にあるもの、あるいは仏教のように三途の川の向こう岸にあるもの、というぼんやりとしたイメージを持ちがちですが、聖書は「以前の天と以前の地」が過ぎ去り「新しい天と新しい地」がもたらされること、しかもそれが「神のみもとから、天から降ってくる」と言います。ちょうどこれも毎週の礼拝で祈る「主の祈り」で、「あなたの御国が来ますように」と祈っているように、天の御国は私たちのもとに到来する。そして天地創造の始めに作られたこの世界が、新しい世界へと完成される時であるとも言われるのです。
3.もはや死はなく
その上で、天の御国がどのようなものであるかを、3節がこう語っています。「私はまた、大きな声が御座から出て、こういうのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる』」。「神の幕屋」とは旧約聖書が記すように神ご自身の生ける臨在のしるしです。その神の幕屋が人々とともにある。そして「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」というのです。私たちが迎えるイースターは、この「神が私たちとともにいてくださる」という天の御国の希望、永遠のいのちの希望の確かな約束でもあるのです。
神が私たちとともにいてくださるとはどういうことなのか、4節。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものがもはや過ぎ去ったからである」。私たちが地上で経験するあらゆる悲しみの経験、苦しみの経験、涙の経験、そしてそれらの究極のものである死そのものがもはや過ぎ去り、主御自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐってくださる、そのような神さまの私たちに対する大いなる、恵み豊かな「寄り添い」。それが天の御国の姿です。またもう一つ、ヨハネが見た天の幻が22章1節、2節にこう記されます。「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」。新天新地の都の中央にはいのちの水の川が流れている。エデンの園は、やがての新天新地にあっては新しい都となるというのです。この新しい都をヨハネに先立て見たのが、旧約の預言者エゼキエルでした。エゼキエル書40章以下には、エゼキエルが神の使いに見せられた新しい都の光景が描涸れますが、その終わりの48章35節でこう締め括られるのです。「この町の名は、その日から『主はここにおられる』となる」。まさに「主はここにおられる」、「神がともにおられる」、これが完成、成就する、これが新天新地の姿なのです。
5年前の6月に突然に母が天に召されました。母の遺言で葬儀は家族・親族のみでするようにということだったので、姉が母の人生を振り返り、妹が母との思い出を語り、兄が家族を代表して挨拶をし、私が葬儀全体の司式と説教をしました。式次第を準備する時、姉が歌う賛美を選んだのですが、その一曲が聖歌687番「まもなくかなたの」でした。私たちが子どもの頃、教会学校で歌った賛美です。それ以来、このメロディーを聴くだけで込み上げるものがあり、時々、真樹子が礼拝の前奏で弾くのですが、それだけで涙が溢れそうになります。そしてその歌詞が今の私には天の御国のイメージとなっています。本当のところは行ってみないとわからないのですが、それでも今の自分には一番しっくりくるイメージなのです。ご存じの方もおられるでしょう。こんな歌詞です。
まもなくかなたの流れのそばで 楽しく会いましょう また友だちと
神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日の ああなつかしや
水晶より透き通る流れのそばで 主を賛美しましょう 御使いたちと
神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日の ああなつかしや
銀のように光る流れのそばで お目にかかりましょう 救いの君に
神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日の ああなつかしや
よいことを励み 流れのそばで お受けいたしましょう 玉たまの冠かむりを
神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日の ああなつかしや
私たちもやがて地上のいのちを終える日が来ます。それでも主イエスのよみがえりにあずかって私たちもよみがえらされ、神さまがともにいてくださる新天新地においていただける。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない、そのような新天新地において永遠のいのちに生かされ、また愛する者たちとともに、皆で集まって究極の礼拝をおささげすることができる。この希望をしっかりと握り締めて、今日からの日々を歩んでまいりましょう。