2月第二の主日を迎えました。今日は衆議院選挙の投開票日です。何が本当の争点かもはっきりしない、内閣に白紙委任状を差し出すような選挙になっており、まことに憂いが深い朝ですが、それでも「御心が天になるごとく、地にも」と祈る私たちとして、与えられた信仰の洞察、判断、知恵を働かせて歩みたく願います。今朝も愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように。

1.救いの始まりから救いの完成へ

「私たちの信仰」と題してのシリーズ説教も九回目になりました。「聖書について」、「神さまについて」、「人間について」、「イエス・キリストについて」学んだのに続き、前回から主イエス・キリストが成し遂げてくださった救いの御業を学んでいます。そこではまず、救いとは何からの救いか、次にそのために主イエスがしてくださったことは何か、それはいったい誰のためであったか、そしてなぜそう言えるのか、ということを確認しました。すなわち救いとは「罪からの救い」であり、そのために主イエスが成し遂げてくださったのが十字架と復活による贖いの御業であり、それは他ならぬ私たちのため、私のためであり、そしてそれは聖霊が与えてくださる信仰のゆえであるということでした。ローマ5章6節、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました」、8節。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」、そしてⅠコリント12章3節、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」とあると教えられたとおりです。

さて、このように主イエス・キリストが成し遂げてくださった救いの御業は一度きりの完全なものでした。以前に主イエスが私たちの偉大な大祭司であることを学びましたが、その際にも確認したように、主イエスの十字架は何度も繰り返される動物の犠牲とは違い、一度きりの完全なものであり、それによって私たちのすべての罪は赦されたと主は宣言してくださっています。その意味で救いは一度きりの完全なものだと言えるでしょう。皆さんもそれぞれの人生の歩みの途上で主イエス・キリストと出会い、そして主イエスを私の救い主と信じ、受け入れ、信仰を告白された。その時にあなたの罪は赦され、罪からの救いが成し遂げられたのです。これは確かなことであり、その一度きりの完全な救いは途中で取り消されたり、取り上げられたりすることはありません。

しかしその一方で、聖書は私たちの救いの御業が一瞬のことでなく、徐々に完成に向かっていく歩み、一連のプロセスであることも教えています。すなわち一方で救いは一度きりの完全なことであり、それとともに他方では、救いには始まりがあり、救いの完成への道のりがある。そのような道筋、プロセスでもあるのです。そしてまさに私たちは今、救いの始まりから救いの完成に至る道筋を歩んでいる、救いの途上にあるのです。このことはだからといって、今の私の救いが不十分、不確かであることを意味しません。すでに救われた私たちですが、いまだ救いは完成してはいない。その途上にあることを覚えたいと思うのです。

2.神からの知恵

救いの始まりから完成に至る道筋を考えるにあたって、今日与えられているⅠコリント1章30節の御言葉に聴きましょう。「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました」。先ずこの御言葉の語るところをよく受け取るために、少し前に戻って10節から12節を読みます。「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。あなたがたはそれぞれ、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』と言っているとのことです」。

この手紙の宛先であるコリント教会は、当時、大きな問題をいくつも抱えていました。その中の最大の問題が「仲間割れ」でした。教会の中で自分たちが尊敬する指導者の名の下にいくつものグループができてしまい、互いに反目していたのです。もちろんパウロやアポロ、ケファ、そしてイエスさまがそのようなグループを作ったわけではありません。教会の中に自分たちの主義主張を一番だと言い張り、自分たちこそ一番優れている、知恵があると誇り、その拠り所としてこれらの名前を掲げるということが起こっていたのです。そのように自分たちこそ優れている、自分たちこそ知恵があると誇って他の人々を見下すような過ちに互いに陥っているコリント教会の人々に、1章17節以下で神の知恵とはそのように驕り高ぶって他人を見下すようなものではない、自分は知恵があるなどと誇るようなものは本当の知恵ではない。皆が愚かと見るようなところにこそ本当の知恵がある。十字架のキリストにこそ神の知恵は現れているとパウロは語って来ました。

知恵がなければ救われない。そう言われたらどうでしょうか。もちろん今こうして私たちが『私たちの信仰』と題して学んでいるのも、ある意味では知恵を得るためと言えるでしょう。しかしそれでこのシリーズが終わったら期末テストをして、60点以上取らなければ救われません、と言われたらどうでしょうか。少なくとも日本語が理解できて、ここで語られていることを理解できて、それについて書くことができる、そういう力がなければならないとしたらどうでしょうか。この世の知恵というのはそういうことです。しかし27節から。「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです」。

私たちはこの世の知恵、人間の知恵を蓄えて救いに入るわけではない。もしそうだったら先ほどのように救いに入るためのテストが課せられることになる。それでは幼い子どもはどうなのでしょう。様々な障害を持つ人はどうなのでしょう。認知症を患った人、知的な理解が難しい人はどうなのでしょう。神の救いはむしろそのような人々にこそ受け取られるものだとパウロは語っているのです。それこそが神の知恵だというのです。それでパウロはこう語るのです。もう一度30節。「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは私たちにとって神の知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました」。キリストが私たちにとって神の知恵となってくださった。私たちの知恵深さで救いを獲得したのではなく、キリストが私たちのための神の知恵となってくださり、救いを成し遂げてくださったので、私たちはそれを信じ、受け入れて、救われた。このことをよく心に刻んでいただきましょう。

3.義と聖と贖い

ではこのキリストによってもたらされた救いの中身は何であるのか。それをパウロは「義と聖と贖い」という三つのことばで表現しました。「義」とは私たちが神さまの前に正しいとされる、ということです。そんなことが私にできるのか。当然できません。私は神さまの前に背を向けて生きてきた人だからです。しかしその私をキリストが義としてくださった。正しいとしてくださったというのです。それはいったいどのようにしてか。それが十字架と復活の御業でした。主イエスの十字架によって私の罪は赦され、キリストの義が私のものとされ、私たちは義の衣を着せていただいて、神の御前に義なる者と認めていただいたのです。これを教理の言葉で「義認」と言います。

次に「聖」、「聖さ」とは、義と認められた私たちが神の子どもとして受け入れられ、神さまの聖さにあずかって聖なる者とされていくことです。神さまは私たちに聖さを求められます。罪ある私たちが罪赦されて新しい者とされる。罪の奴隷の状態から神の子どもとされる。それはまことにありがたくすばらしいことで、私たちもそのように願う。罪を離れ、聖なる者となることを願います。しかしこの聖さは自分の努力や行い、熱心さで成し遂げていくものでなく、神さまの恵みの御業です。これを教理の言葉で「聖化」と言います。そしてこの義認と聖化の歩みこそが、最初に申し上げた救いの始まりから救いの完成に至る道筋なのです。

これは何も難しいことではありません。むしろ私たちが自分自身を省みればすぐに分かることです。私たちはある時、イエスさまを自分の救い主として信じた。そして罪から救われた。そして神の御前に義と認めていただいた。これは一度きりの完全なことで、取り消されることのない神さまの決定です。ですからそれは疑う余地のない確かなものです。ところがそれで私がたちどころに聖い者になった、一つも罪を犯さない者になったと言えるかというと決してそうではない。救われてなお私たちは罪を犯す。先週一週間の間もそうでした。皆、だれ一人例外はない。牧師である私もそうです。聖書はそれを「古い人」と言う。そして救われてなお私たちの内には古い人と新しい人との深刻な戦い、せめぎ合いがあるというのです。しかしそのような戦いを経ながら少しずつ、しかし確実に聖なる者とされていく道筋を進んで行く。これが私たちの救いの完成に向かう歩み、聖化の途上の歩みなのです。そのようにしてキリストは私たちにとって義と聖と贖いになってくださった。私たちの救いを成し遂げてくださり、そして救いの完成へと導き続けてくださるのです。この道筋を一歩一歩、一足一足進むのが私たちの信仰の生涯です。今日もその一歩を前に出し、その一里塚を刻んでまいりましょう。