2月も第四の主日を迎えています。教会の暦では先週水曜日の「灰の水曜日」から受難の季節に入りました。十字架に向かわれる主イエスのお姿を見つめつつ、その後に従い行く私たちでありたいと願います。また今日は礼拝に続いて2026年度の教会総会が開かれます。主の御前でなされる会議に主のご臨在と導きを求めつつ、まずはこの時、みことばに集中して聴きたいと願います。今朝も愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.救いへの突進
「私たちの信仰」のシリーズ説教も11回目となり、前回から「教会」について学び始めています。先週は「教会をどこから考えるか」ということで、マタイの福音書18章の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」との主イエスのお約束のみことばから学びました。今日は続いてマルコの福音書2章1節から5節が開かれています。もしかすると皆さんの中には、「教会がテーマでどうしてこの聖書箇所?」と思う方があるかもしれません。しかし私は今日のこのマルコ2章は、教会ということを考えるにとても相応しい箇所だと思いますし、ある意味で教会の原点のような箇所だとも思うのです。
多くの場合、この箇所は人の救いがいかにして起こるか。ひいては主イエスが罪を赦し、人を生かすことがおできになる権威あるお方、まさに神の御子でいらっしゃることを証しする箇所として説かれることが多い箇所です。ある説教者はここからの説教に「救いへの突進」と題と付けておられました。なかなかインパクトのある説教題です。中風の人が床の上に寝かされたまま家の天井を突き破って主イエスのもとに運ばれてくる。四人の人たちがそうまでしてこの一人の人を主イエスのもとに連れてくる。まさしく大胆な突進だと言える姿です。あらためて1節、2節を読みます。「数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた」。今日の舞台はカペナウム。すでに主イエスの噂はガリラヤ地方全体に広がって、人々は主イエスのもとに続々と押し寄せて家がいっぱいになり、外にまで溢れ出んばかりとなっていました。そして3節、4節。「すると、人々が中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした」。
突如として天井からボロボロと土埃が落ちてくる。当時の一般的な民家は木材を組み合わせた骨組みに木の枝を敷き詰め、そこに泥を固めて土壁のように壁と天井を造るという簡素なものだったようですが、その天井の土壁が崩れてポッカリと大きな穴が現れる。人々がびっくりしながら上を見上げていると、そこからスルスルと、恐らく板の上にでも載せた床の上に寝かされたままの一人の人がつり降ろされて主イエスの前に連れて来られます。突拍子のない、大変大胆で非常識、しかしそれだけに何としても彼を主イエスのもとに連れて行きたいという熱い思いに駆られた行動です。そしてその突飛な振る舞いがきっかけとなって大きく事態が動き始めるのでした。
5節から12節。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。』彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために。』そう言って、中風の人に言われた。『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。』すると彼は立ち上がって、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、『こんなことは、いまだかつて見たことがない』と言って神をあがめた」。
2.教会の原型
しかしそんな喜ばしい出来事を前にして心の中であれこれと言う律法学者たちがいました。自分の理屈や常識に合わないことは受け入れられない。そんな律法学者の姿に、私たちは自分自身が重なって見えてきます。自分の経験、自分の知識、自分の常識にこだわって、その枠が崩されることが受け入れられない。自分の枠組みの中ですべてを処理してしまいたくなる。そんな私たちです。しかし主イエスを信じる信仰は、時にそのような枠組みそのものを揺さぶり、打ち崩すほどの破格の信仰だということを教えられるのです。中風の人の癒やしはまさに破格の振る舞いから始まったことでした。
ここには常識では考えられないことがいくつも起こっています。まず目を留めたいのが、中風の人を運んできた四人の人の姿と、その四人に目を留められた主イエスのお姿です。5節。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた」。ここで「イエスは彼らの信仰を見て」と記されることに注目したいのです。通常、主イエスによる癒しが行われる時は、癒さされる当事者の信仰に光が当てられます。しかしここでは目の前にいる中風の人でなく、「彼らの信仰を見て」と言われる。それはとても珍しいことです。さらに主イエスは中風の人を連れて来るために勝手に他人の家の屋根に上り、順番なにも無視して無謀にも屋根に穴を開け、床のままつり降ろすという掟破りの暴挙に出た彼らの振る舞いを、「何と非常識な」と退けられない。むしろそこに「彼らの信仰を見た」と言うのです。「一体彼らのどこに?」と問いたくなるようなことですが、しかし主イエスは彼らの振る舞いを信仰だと認めてくださるのです。これもまた異例なことだと言えるでしょう。
中風の人本人も、せっかくの四人の振る舞いを感謝しながらも、主イエスのもとに辿り着けないと分かって諦める気持ちがあったかもしれない。屋根にまで上ろうとする彼らに「もう十分だから、そこまでしてくれたら、もうそれで十分だから」と押しとどめる気持ちがあったかもしれない。周囲の目を恐れたり、憚ったり、諦める気持ちが出て来てもおかしくはない。しかしそれでも最後は友人たちに身を任せ、まるで見世物のようになりながらも、黙って主イエスのもとにつり降ろされていく。ここでの彼はまったく受け身の存在です。しかしそれでも主イエスは彼に向かって「子よ、あなたの罪は赦された」と言われ、彼をその床から立ち上がらせてくださるのです。
私たちはこの光景に、教会の原型を見たいと思うのです。しかも四人の姿だけではない、四人に担われて主イエスのもとにつり降ろされていく一人の姿の中にも、主イエス・キリストのもとに集められた教会の姿を見るのです。
3.一人を担って
私たちも皆、床の上に載せられた人のようにして主イエスのもとに来た人です。私を連れてきてくれた友がいた。そして主イエスが出会ってくださった。主イエスの御前に自分の罪を認め、主イエスの十字架を仰いで、このお方を信じた時、主イエスは「子よ。あなたの罪は赦された」と宣言してくださった。屋根を破って突進してきた中風の人を、主イエスは退けることをなさいませんでした。ここはあなたが入って来る場所ではないと言われなかった。順番を守って後ろに回りなさいとも言われなかった。四人の人に向かって、何と非常識なことをするのかと叱責するようなことはなさらなかった。むしろ四人の振る舞いを「信仰だ」と認めてくださり、この一人の人を「子」と呼んでくださいました。ここにあなたはいてよい。いやここがあなたのいるべき所だ。子よ、今ここであなたは罪赦され、癒やされて、立ち上がることができるのだと主イエスは語ってくださるのです。
私たちは自分の力で立ち上がることができない弱い者です。自分で自分の罪をぬぐい去ることのできない罪深い者です。自分一人では主イエスのもとに行くことさえできない者です。しかし主イエスはそんな私を御自身の前に連れてくるために、大切な友を備えてくださり、頼んだわけでもないのに私を背負い、私を担い、私のために喜んで、進んで犠牲を払って主イエスのもとに連れてきてくれた、そんな人々を備えていてくださる。それが教会の姿なのです。 誰かがあなたやほかの誰かを疎んじたり、軽んじたり、排除したり、無価値だと言ったり、無用だと言ったり、「あなたがいても意味がない」などと言って存在が否定されるようなことがあったとしたら、それに抗い、からだ全体を挙げて「この人はまことにかけがえのない尊い存在だ」ということをどこまでも言い抜いていく、そしてその存在の尊さがどこまでも貫かれていく、それが教会の姿でしょう。
そして今、私たちもこの四人の一人にされています。一緒に主イエスを信じ、一緒に一人を担う四人の一人にされているのです。この恵みの事実を覚えて、一人の人を主のみもとにお連れするために、一緒に信じ、一緒に担ぐ。そのような教会として建て上げられてまいりましょう。