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多磨教会
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2026年10月11日 歓迎礼拝「人生の秋を生きる」詩篇90篇12~15節

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2026年10月11日 2026年10月11日

秋晴れの10月の朝を迎えました。今朝は多磨教会の歓迎礼拝にようこそお出でくださいました。はじめて教会に足を運んでくださった方、はじめて聖書のことばに触れる方を心から歓迎いたします。生けるまことの神が聖書を通してお語りくださるいのちのことばによって、生きるための励まし、力を受け取っていただけたらと願っています。この朝、ここに集われた皆さんお一人一人に、神の豊かな祝福がありますように心よりお祈りいたします。

1.人生の四季

「人生」を「色彩」、「時間」、「季節」などになぞらえて表現することがあります。「バラ色の人生」、「人生の黄昏時」、「人生真っ盛り」、「モテ期が来た!」などなど。中でも人生の全体を季節の移り変わりに重ねることがしばしばなされます。たとえばスイス人の精神医学者ポール・トゥルニエの著した『人生の四季』という書物があります。そこでは人の一生涯を次のように考えるのです。まず「春」。これは赤ちゃんから10代頃までの子どもの時代です。トゥルニエはこの時代を「準備」の時とし、親の愛を受けながら一人の人間として形づくられていく大事な時とします。次に「夏」。若者の時代です。トゥルニエはこの時代を「活動・実践」の時とします。心も身体も様々なものを吸収し、学びや恋愛、人生の意味の探求、挫折などの経験を通して社会の中で自分の力を発揮し、自らを確立していく時期です。ここまでは様々なアップダウンはありつつも、基本的に上り坂の歩みと言えるでしょう。

これらに続く重要な季節が「秋」です。40代から60代の中年、壮年の時代。トゥルニエはこの時代を「実り」の時、また「転換」の時とします。これまでの人生の経験が豊かな実りとなる時期、そしてまた様々な面で人生が成長から成熟へ、また緩やかな下降へと向かう時期であり、「外的な成功」から「内的な成熟」へと転換する時とします。そして「冬」です。70代から90代、老いを生き、やがて死を迎えるまでの時。トゥルニエはこの時代を「喪失から統合と完成」の時とします。仕事、健康、家族、人生の様々な喪失を受け入れながら、また人生において意味を見出せなかった断片的な出来事が、やがて自分の人生として統合され、完成されていく大事な仕上げの時です。しかもキリスト者であったトゥルニエはこの時期を単なる人生の終わりでなく、神の御許に迎えられるためのもっとも厳かな成熟の季節と位置づけるのです。

こうした視点を踏まえつつ、今日は『人生の秋を生きる』という主題を掲げました。そう聞くと、もしかすると若い方やシニア世代の方は「自分たちのテーマではない」と思われるかもしれません。しかし単なる世代の話ではないのです。むしろこうした視点を通して、私たちの人生全体の捉え方を考えてみたいと思うのです。しかもその際に、人間という存在について、そして人が生きるということについて、まことに深い洞察に満ちた「聖書」のことばに耳を傾けつつ考えてみたいと思うのです。

2.自分の日を数える

この朝、旧約聖書にある詩篇90篇のことばを読みました。印象的なのがこの詩に付されたタイトルです。「神の人モーセの祈り」。神の人モーセの名が付されたこの詩。そこにはモーセという旧約聖書の代表的な人物の人生に現れる「生き方」が凝縮されているとも言えるでしょう。モーセは旧約聖書「出エジプト記」という書物に登場する人物で、エジプトで奴隷であったイスラエル民族の家に生まれ、ナイル川に流されたところをエジプトの王ファラオの娘に偶然拾い上げられ、王家の子どもとして育てられ、しかしイスラエル人のアイデンティティーに生きることを決断し、やがて神によって召されて、イスラエル民族をエジプトから助け出すリーダーとして立てられる。そこから40年に亘ってイスラエルの民を約束の地カナンに導くための旅路を導き続け、ついにその地を仰ぎ見るところに至ったときに、後継者ヨシュアとカレブに後を託して地上の命を終えるという、波乱に満ちた数奇の人生を送った人物です。その彼の名を冠したこの詩の中で、次のことばを特に心に留めたいと思います。12節。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください」。

「自分の日を数えることを教えてください。そうして私たちに、知恵の心を得させてください」。これがモーセの祈りでした。「自分の日を数えること」、それが「知恵の心」だと。そういう心を与えて欲しいと祈るのです。「自分の日を数える」とは、もちろん単純に生まれてから今までの日数を数えるということではありません。ちなみにこういうのは今はAIに聞けば一発で、例えば私は1968年5月29日生まれですが、今日、2026年10月11日までの生きてきた日数は21,319日。あっという間に数えてくれました。ではそれが「知恵の心か」と言えば、そういうことでもない。「自分の日を数える」。それは自分の人生を何の虚飾もなく、何の増減もなく、ありのままに、そして正しく見つめ、引き受け、生きることができるように、という祈りです。そうした人生態度は何かの計算によって生まれるものではない。ここに聖書が語る大切な人生の捉え方があります。

聖書の語る人生。それを一言で言い表すなら、「私が生きる」という人生でなく、「私は生かされている」という人生です。そもそも私たちの人生の始まりも「受け身」、「受動態」から始まっていました。「生まれる」。「生まれた」。地上に生を受け、生み出された私たちは、さまざまな人、環境、経験、時間、そうしたものによって生かされて人生の四季を進み、やがて地上の生を終えて召されていく。聖書は「死」さえも受け身の事柄として描くのです。それは決して私が私であるという主体性、アイデンティティー、私の尊厳が損なわれることを意味しません。むしろ「私が生きる」から「私は生かされている」に転換されるとき、そこで私は私を生かす方と出会うことになる。聖書は、私たちが生きるのは、生かしてくださるお方、生ける神によってと語る。生ける神に生かされる人生。この事実を知ることこそが「自分の日を数える」ことであり、それこそが「知恵の心」なのだというのです。しかも「自分の日を数える」とは、単に過去の過ぎ去った日々を数え上げることのみを意味しません。これまでの過去も、こうして生きている今も、そしてこれからの日々をも生ける神に生かされる日々として、神とともに生きる日々として数える。こうした人生の態度を聖書は私たちに示しているのです。

3.人生の秋を生きる

このような神に生かされる人生の「秋」の風景を思い巡らしたいと思います。世代のことだけでなく、私たちの人生において経験される「秋」の風景として思い巡らしたいのです。その際に三つのキーワードで考えておきたいと思います。一つ目は「実り」です。何が私たちの人生において「実り」となるのか。人生において学び取った知識、味わった経験、それらが熟して実を結ぶ経験。私たちはしばしばそれらの量の多さを実りと結びつけます。どれだけたくさんの知識を得、どれだけ多くの経験をくぐり抜け、どれほどの実りを獲得したか。しかし人生の秋は収穫の量だけで決まるわけではない。一つのことを知ることで世界を知り、自らを知る知識がある。たった一つの経験が深く掘り下げられることで人生の根本的な意味を見出すことがある。そして一人の方との出会いによって人生にかけがえない実りを得ることがある。聖書はこれを「知恵」と呼びます。そして生ける神を知ることこそが一番の知恵だと言うのです。

二つ目は「深まり」です。人生における喜び、出会い、成功、満足の経験のみならず、悲しみ、別れ、失敗、悔いの経験を通して、人生が深まり、転換される。多くの人は人生から苦しみをいかにして除去するかに腐心しますが、聖書の人生観は「苦しみ」に出会うことで人生が深められることを教えます。「苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。それであなたの掟を学んだから」とさえ言うのです。人生の秋を生きる。それは明るい原色、明白色だけの景色ではありません。明るい色があれば暗い色があり、くすんだ色があり。それらが幾重にも重ねられ、混じり合い、陰影が付けられ、そうやって描き出される深みのある色彩です。生ける神は私たちの人生をそのような深まりのあるものとして今も描き続けておられるのです。

そして三つ目は「備え」です。人生の秋。それは私の隣りで、私の周りで、そして私に続いて 生きる人々を生かす生き方です。私が大変尊敬し、決定的な影響を受けた牧師に渡辺信夫という先生がおられました。2020年3月に97歳で召されました。先生が晩年お話くださったことで忘れられないことばがあります。人生の終わりは木の枝から葉が落ちていくようなものだと。しかし大事なのは散った葉が木の根元に堆積し、それが腐葉土になり、そこから次の芽が出て、木が育つことだと。そうやって次の世代のために自分たちの存在、自分たちの生と死が用いられていく。それが「継承」ということだと。今の社会はある意味で「使い切り」の社会と言えるでしょう。次の世代や周りの人のことを考える余裕がない。とにかく自分たちで今あるものをすべて使い切ってしまおう。経済も、福祉も、環境も、社会的な資源もありとあらゆるものを消費し切ってしまう社会です。

しかし「人生の秋を生きる」とは、やがて自分の人生の締め括りが来ることを知り、それをしっかり見つめ、備えをする生き方です。自分のための備えでなく、他者のための備え、自分の後を生きる人々のための備えです。そんなことをしたら私の人生はどうなるのか。心配には及びません。詩篇は祈ります。14節、15節。「朝ごとに あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。私たちのすべての日に喜び歌い 楽しむことができるように。どうか喜ばせてください。私たちが 苦しめられた日々とわざわいにあった年月に応じて」。神が満ち足らせてくださる。神が喜び歌わせてくださる。神が楽しませてくださる。神が人生の四季を彩り完成させてくださる。この神に生かされる人生を歩み出してください。