新しい主の年、2026年最初の主日の朝を迎えました。主にあって心からのご挨拶を申し上げます。新年あけましておめでとうございます。今年も一年52回の主日礼拝の一回一回を、心をこめておささげしてまいりたいと願います。今朝も主がその名前を呼んで御前に呼び集めてくださった愛するおひとりひとりの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.創造の神、交わりの神
『私たちの信仰』の5回目に入ります。「聖書」、「神」に続いて「人とは何ものか」という主題に進みますが、その前におさらいも込めて聖書の語る神さまはいかなるお方かということを考えます。前回、教理説教における「神」論の扱い方にはいろいろなアプローチがあり、「永遠の神」、「全知全能の神」、「無限の神」そして「創造主なる神」から説き起こすということが多いとお話しし、その上でクリスマスの時期に聴くべきこととして、聖書の神は「インマヌエル」なるお方、すなわち「私たちとともにおられる神」であることを学んだのです。
そこでももう一度、ここに立ち戻ってみますと、聖書の神観のもっとも重要な点は大きく二つ。一つは、神さまが天地万物をお造りになった「創造の神」であるということ。そしていま一つが、この神が私たちとともにあり、私たちに「あなた」と語りかけ、私たちと契約を結んでくださる人格的な神、「交わりの神」でいらっしゃるということです。イザヤ書43章1節に「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの』」、7節に「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った」と言われるとおりです。天地万物を創造された偉大なお方、私たちを遥かに超えた遠い存在であるお方が、同時に私たちの名を呼び、私たちに近づき、私たちとともにいてくださる最も近いお方。これが聖書の語る神さまのお姿だというのです。
こうして太陽と月、昼と夜、大空と天、陸と海、植物や果樹、天の星々、鳥や生き物、魚たち、哺乳類や爬虫類など、すべての命あるものをお造りになった神が、天地創造の六日目に造られたのが「人間」でした。創世記1章26節、27節。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」。これが人の創造についての聖書の語りです。そこでの大事なポイントも二つ。一つは明らかに一日目から五日目までの創造の御業は、六日目の人の創造に向かってなされたということ、いま一つは、人が「神の似姿」に造られたということです。
2.人の尊さと脆さ
こうして今日の「人とは何ものか」という主題に入って行くことになるのですが、それを詩篇8篇3節、4節を通して教えられたいと思います。「あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。ここで詩人は「あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見る」という経験をしながら、そうやって大きな満点の星空を見ながらこう問うのです。「人とは何ものなのでしょう」。ここでの「人」とは「人間」一般と言うこと以上に、要するに「私は何ものか」という問いに繋がるものです。この大きな天を前にしている自分の小さな、脆さ、儚さを思う。そこで「いったい私とは何ものなのだろうか」との問いが浮かんでくる。これは人間にとってとても重要な問いかけでしょう。
私たちは自分で自分を知ることの難しさを知っています。一方で「自分のことは自分が一番よく分かっている」と思いますが、しかし本当にそうかと問われると正直揺らぐ思いがあります。そもそも私は自分の顔を直接自分の目で見たことがない。鏡に映った自分の顔しか見たことがないのです。人とは何ものか、自分とは何ものか。これは決して自明の問いではない。むしろとても深く、難しく、しかしそれだけにそれを知らなければ生きることのできない切実な問いでもあるのです。宗教改革者カルヴァンがその主著である『キリスト教綱要』という書物の冒頭に、人間がどうしても知らなければならない二つの知識があると言いました。一つは「神を知ること」、もう一つが「己を知ること」だと。そしてこの二つの知識は切り離すことができない、とも言いました。これもまた大切な言葉です。神さまを知らなければ自分を知ることができない。自分を正しく知ることなしに神さまを知ることもできない。それで私たちは聖書を通して神さまについて知り、またその神さまによって造られた私たち人間について知ろうとしているのです。
では聖書は神さまによって造られた人間というものを、どのように見ているのでしょうか。ここで先に申し上げた天地創造における人の創造の二つのポイントを思い起こしてください。一つは明らかに一日目から五日目までの創造の御業は、六日目の人の創造に向かってなされたということ、そしていま一つは、人が「神のかたち」、「神の似姿」に造られたということでした。つまり神は私たち人を特別なものとしてお造りくださったという事実です。それで詩人も驚きつつこう言うのです。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」と。
さらにもう一つの御言葉を読みます。創世記2章7節。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」。ここには人間の尊さと、それとともに人間の脆さとが表現されています。創造の六日目に造られた人間、神のかたちに似せて造られた人間。それは時に「被造物の冠」とさえ呼ばれる人間の尊厳を示しています。人は神のかたちに造られた。そこに人の根源的な尊さがある。人の尊厳が軽んじられ、蔑ろにされる社会です。人がモノや道具のように扱われ、何ができるか、どれだけ社会の役に立つか、生産性や有用性があるかということで人の価値が計られる時代です。しかしそんな社会と時代に向かって、聖書は語るのです。人にはだれにも奪えない尊厳がある。存在そのものの尊さがある。神がご自身のかたちに造ってくださった尊厳があるのです。
しかしそれとともに聖書は人間の脆さ、脆弱さをも語ります。人は「大地のちり」で造られたものである。いや、「大地のちり」で造られたものに過ぎない。弱く、脆く、病み、衰え、老い、そして死にゆくものです。そのような人間の脆さをわきまえ知ることもまた大切なことでしょう。それは私たちに己の限界を教え、また私たちを謙虚にするものです。私たちは土のちりに過ぎないものだと。これを忘れることが人間の罪であり、傲慢さこそが人間の罪の本質です。罪の問題は次回学びますが、ともかく私たちは神さまを知ることで自分自身の尊さを知り、また自分自身の脆さを知る。その時に私たちはそのような私たちに心を留め、顧みてくださる神をより一層知っていく者とされていくのです。神を知らない人間の悲惨さと愚かさは、自分が自分の神であると錯覚し、おごり高ぶり、膨れ上がることです。人は上へ上へと向かおうとする。自分をより大きく、強く見せようとする。多くのものを得ることが自分を高めてくれると思う。より高く、より強く、より大きく、より多く。そうやって自分で自分を価値ある者のように装っていく。
3.私は何ものか、私は何のために生きるのか
しかし聖書が語る人間の有り様はそれとは真逆なものです。むしろ天地万物を造られた偉大な神を知り、その神の前でまことに小さく、弱く、脆い自分の姿を知り、そこで徹底的に小さくされ、謙虚にされていく。そしてそこで偉大な神の前での自らの姿を知る者とされていくのです。その意味で「人とは何ものなのでしょう」との問いは、単に人間一般についての問いで終わるものではありません。「人とは何ものか」との問いは、突き詰めれば「私とは何ものか」という問いになっていく。これは私たちの存在の根拠に関わる問いです。
そしてそこからもう一つの問いが生まれます。「私は何のために存在し、何のために生きるのか」。これは私たちの存在の目的に関わる問いです。この二つの問いの答えを求めて生きるのが人間であり、私自身なのです。そしてこの問いと関わる時に避けて通ることができないのが、やはり「罪」の問題です。なぜなら罪に堕落した結果、私たちは創造主なる神から「あなたはどこにいるのか」と探されなければならない存在となってしまい、「人とは何ものか」という驚きの問いでなく、本当の困窮の問いとして「私は何ものか」と問わなくてはならない存在となってしまったのです。
しかしそのような罪のゆえに「私とは何ものか」と問い、「私は何のために生きるのか」と問わざるを得なくなった私たちに、父なる神は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、御子の十字架と復活を通して私たちを救い、「私は何ものか」という問いに対する答えを与えてくださったのです。その一つの鮮やかな答えを使徒パウロが口にしています。一コリント15章9節、10節。「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」。「人とは何ものか」、「私は何ものか」と問わざるを得なくなってしまった私を神の御子イエス・キリストの贖いによって神の子どもとしてくださった。そして今や御子キリストと結び合わされ、義とされ、聖とされ、神の子どもとされ、新しい人とされた。それで私たちもパウロとともにこう言うことができるのです。「私は神の恵みによって今の私になった」と。
ここに「人とは何ものか」との問いへの答え、「私は何ものか」という問いへの答えがあります。年末感謝礼拝でも聴いた御言葉です。「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」。「今の私」とは「神の子とされた私」です。私とは何ものか」。「私は神の子です」。この恵みの事実を繰り返し確認するのが、この礼拝の時なのです。神を礼拝する時、私たちはこの恵みの事実を確認させていただくのです。神の御前に謙虚にさせられ、神に拠り頼む者とさせられながら、神の子としての自分を見つめ、隣人の姿を見つめて歩む私たちでありたいと願います。