この朝は、2026年の新年聖会として主の御前におささげする礼拝です。今年、私たちの教会はエペソ人への手紙3章17節から19節を通して、「愛に根ざす教会として」を年間の主題に掲げて歩み始めています。これがただ掲げられるだけの言葉で終わらず、一年通して私たちの主にある歩みの目標となり、私たちの教会を生かす力となり、何よりも私たち一人一人の日々の祈りになるようにと願っています。

そこで今日は多磨、いずみの主にある兄弟姉妹が一堂に会し、この年、教会に与えられたみことばを、この朝の礼拝と午後からの聖会を通して深く教えられたいと願っています。今朝も教会のかしら、私たちのまことの牧者であられる主イエス・キリストがその名前を呼んで御前に呼び集めてくださった愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように。

1.パウロの祈り、私たちの祈り、教会の祈り

今年の主題聖句であるエペソ3章17節から19節は、実際には14節から21節まで記される祈りの一部です。それでまずこの祈りの全体を読んでおきましょう。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」。

エペソ人への手紙は6章からなる手紙ですが、大きく前半と後半に分けられます。関西聖書神学校校長の鎌野直人先生が書かれた『神の大能の力の働き』というエペソ書の説教集があります。1章20節から取られた書名ですが、そこで鎌野先生がエペソ書を「キリストに働いた『神の大能の力の働き』」を記す1章から3章、この「『神の大能の働き』が生み出した教会の歩み」を記す4章から6章と区分しておられます。こうしたいわば「教理篇」と「実践編」のような論じ方はローマ人への手紙の1章から11章、12章から16章という構造にも通じるものですし、その前半部と後半部の「つなぎ」のところで壮大な祈りが献げられているのもローマ人への手紙11章の終わりを彷彿とさせるものです。

ともかくこの祈りは壮大な祈りです。そしてまたこの祈りは私たち教会の祈りでもあるのです。私はこれまでお仕えしてきた教会でもそうでしたが、多磨教会に赴任してからも心がけてきたことの一つに「祈りの射程を広げる」ということがあります。毎週の祈祷課題をご覧いただければ分かるように、教会の祈りの課題をなるべく幅広く、網羅的に、きめ細やかに、そして射程を広くしたいと願っています。ですから一人のための祈りから家族のための祈り、自分たちの教会の祈りから、同盟基督教団や府中近郊の諸教会のための祈り、私たちの身近な家庭や地域のための祈りから、世界の国々とそこでの様々な課題についての祈りまで、そして突き詰めれば「天の御心が地になるように」との主の祈りに沿った祈りをささげ続けたいと願っているのです。

しかもその祈りは特定の誰かが祈る祈りでなく、祈りに重荷のある人、祈りに熱心な人、祈ることに長けた人の祈りでなく、私たちの祈り、教会の祈りなのだということです。多磨教会では昨年9月から、木曜の朝に加えて夜にも祈祷会を始めました。多磨でも、いずみでもますます祈りが熱心になり、祈りの集いが盛んになることを願っています。結論的に言えば「愛に根ざす教会として」の歩みの一番の根っこにあるのは「祈り」でしょう。祈ることなしに私たちは何もすることができませんし、何も成し遂げられることはないでしょう。愛に根ざす教会は、祈る教会であると心しましょう。

2.三つの祈り

この壮大な祈りを前にして圧倒される私たちですが、しかしただ立ちすくむばかりではおれません。ここでパウロは何を祈っているのか。その中に分け入っていきたいと思います。実はこの箇所はいくつかの読み方ができるなかなか難しいところなのですが、私たちとしては、ここでは」大きく三つの祈りがささげられていると読みたいと思います。第一の祈りは16節から17節にかけてで「内なる人が強められるように」との祈り、第二の祈りは18節から19節で「キリストの愛を知ることができるように」との祈り、そして第三の祈りが19節の「神の満ちあふれる豊かさにまで満たされるように」との祈りです。この区分に従うと、私たちにとって中心的な箇所である17節から19節の「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」は第一の祈りと第二の祈りに分割されることになります。

そこで少し細かい議論で恐縮なのですが、一つの問題となるのが「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」という句が前の16節にかかるのか、それとも後の18節にかかるのかという読み方の違いです。新改訳2017はこの句を続く18節にかけて「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたすべての聖徒たちとともに、・・・人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」と訳します。しかし別の可能性として前の16節にかけて読むことも可能で、その場合は第一の祈りはこのようになります。「御霊によってあなたがたの内なる人が強められ、信仰によってキリストが内に住まわれ、愛に根ざし、愛に基礎が据えられますように」。次いで第二の祈りが「すべての聖徒たちとともに、キリストの愛の高さ、長さ、高さ、深さを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」。そして第三の祈りとして「そのようにして、神の満ちあふれる豊かさに満ち溢れますように」。

今日はこれ以上の細かな議論に立ち入ることはしませんが、私たちの主題との関わりで言えば「愛に根ざし、愛に基礎を置く」は私たちの「前提か」、それとも私たちの「祈りか」ということです。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」は、すでにそのようになり、出来上がっている私たちを前提にしているというよりも、絶えずそのようなものとなることを目指し、またそうなっていけるようにと祈りつつ歩む、途上にある私たちの姿と受け取りたいと思います。

3.愛に根ざし、愛に基礎を置く

そこでいよいよ私たちの今年の主題である「愛に根ざす教会」ということに関わる、大事なみことばに注目したいと思います。「愛に根ざす」と「愛に基礎を置いている」も、そこで意図されていることは一つのことです。しっかりと根ざし、基礎を置く。私たちの足下、土台、基礎に関わること。ここが重要だということです。「根ざす」は園芸の用語で、植物や野菜が豊かに育つためのしっかりとした苗床を指す言葉です。また「基礎を置く」は建築の用語で、その上に建てられる構造物をしっかりと支えるための強固な基礎、土台を指す言葉です。

かつて徳丸町キリスト教会で会堂建築に取り組んだ際、毎日工事現場に通って写真を撮り続けましたが、特に意識したのが基礎工事の記録でした。工事が進み、建物が出来上がってしまうと見ることのできない基礎部分をきちんと写真に撮り、記録を残し、この姿をこそ後になって振り返ることができるようにと願ったのでした。そして実際には全体の工期の半分近い期間がこの基礎工事に充てられる。地質検査をし、土を掘り、土壌改良をし、擁壁を造り、深いところにまで何本ものパイルを打ち込み、やがて型枠を造り、鉄筋が張り巡らされ、セメントを流し込み、強固な基礎が造られている姿を見て、たくさんのことを教えられました。定礎式の時には将来、礼拝堂の説教壇になる部分に当たる地下に、教会の皆で署名をした色紙と一緒に大きな聖書を埋めました。「御言葉に基礎を置く」会堂になるようにとの祈りを込めたのです。

「根ざす」は園芸の用語だと申しましたが、もとの新約聖書の言葉はこことコロサイ人への手紙2章7節にだけ出てくる珍しい言葉で、そこでは一つの言葉で植物と建物の二つのイメージが重ねられています。「キリストのうちに根に根ざし、建てられ、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい」。またこれと共通する表現はエペソ書、コロサイ書に繰り返し登場します。まずエペソ書2章20節。「使徒たちや預言者という土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」。次にコロサイ書1章23節。「あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」。

元旦礼拝でも教えられたことですが、教会にとって重要なことは私たちの足下にあるものが多い。上を仰いで歩むためには、足下の一歩一歩、その確実な歩みが重要です。繰り返し申し上げているように、私たちの信仰の営みは基本的に地味で、地道なことの繰り返しです。一日ずつ一歩ずつ、礼拝をささげ続け、御言葉に聴き続け、祈り続けて進むのが私たちの歩みです。一足飛びには進めません。特別なこと、派手なことは必須ではありません。まずはいつもの当たり前のことを、しかしいつものことと慣れてしまわず、いつも新しく、みずみずしく感謝と喜びと驚きをもって歩んでいく。そこに愛に根ざす、愛に基礎を置く信仰が養われ、愛に根ざし、愛に基礎を置く教会が建て上げられていくのだと確信します。

4.私たちを愛してくださったその大きな愛

最後に「愛に根ざし、愛に基礎を置く」という時、その「愛」とはいかなる愛であるかを繰り返し確認し続けていきたいと思います。それこそ「『愛』一般」というようなものとしてしまわないように、「愛」に慣れてしまわないように、です。ではここで言われる「愛」とはいかなるものか。大事なみことばを二つ、確認しましょう。一つは2章4節。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」。もう一つは今日の3章19節。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」。私たちが根ざし、基礎を置く愛とはどのような愛か。それは憐れみに豊かに満ちた父なる神さまが「私たちを愛してくださった大きな愛」であり、「人知をはるかに超えたキリストの愛」です。それは私たちの足下にありながら私たちの足下に収まるようなものではない、圧倒的なほどに「大いなる愛」、「人知をはるかに超えた愛」であり、十字架に表された「キリストの愛」なのです。

私たちがこの年、思いを新たにして歩み出すにあたり、ここに根ざそう、ここに基礎を置こうと決心する「愛」とは、このような「大いなる愛」、「キリストの愛」なのです。足下に置くにはもったいないほどの、恐れ多いほどの、それほどに尊い、かけがえない、そしてもったいないほどの愛なのです。しかしこの愛に根ざすのだと聖書は教え、この愛に基礎を置くようにと聖書は勧め、そしてますますそうあることができるように祈れと命じるのです。この御言葉の迫りを、御言葉を通しての主イエス・キリストご自身からの愛の迫りを、後ずさりすることなく、半身になってかわすことなく、きちんと正面から、顔と顔とを合わせて受け取る私たちでありたいと願います。そうでなければ「愛」は分かりません。

「あわれみ豊かな神」が「私たちを愛してくださったその大きな愛」と言われるように、聖書の教える愛とは、まず何よりも「経験するもの」です。愛されてみて愛が分かる。まず神さまに愛されている私を、神さまに愛されているお互いを見出すものでありたい。そしてそのような自分と互いを感謝し、喜ぶものでありたい。教会の交わりを単なる人間的な交わりにしてはなりません。ただの仲良しの集まり、ただの同好の士の集まり、人間的な親しさ、仲の良さ、関わりの深さ、濃さのレベルにしてしまってはなりません。絶えず神の大いなる愛を経験する交わりとして形成していくことを互いに祈り求めたいと思います。そしてその注意にある「キリストの愛」を受け取るものでありたいと願うのです。その意味でも礼拝は極めて重要であり、とりわけ聖餐の交わりの重要さを新しく教えられたいと願います。

また聖書の教える愛は「学習するもの」です。「人知をはるかに超えたキリストの愛」を知るのは至難の業です。ほとんど不可能なことと言ってもよい。しかしだから知らなくてよい、とはなりません。むしろ知れない愛を知るために、私たちは愛を学習しなければなりません。愛は「感情」の問題である以上に「意志」の問題です。「愛そう」と意志しなければ、私たちは誰かを愛することはできない。ひとりでに、自然と隣人を愛するような者ではないのです。悲しいことにそれが自己中心と責任転嫁に生きる人間の罪と悲惨の姿です。しかしそのような私のためにキリストの愛が示された。あの十字架と復活において。それで「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かった」と一ヨハネ3章16節は言ったのです。そのように私たちも「愛が分かった」ものとして、なお知り尽くせない人知をはるかに超えたキリストの愛を知っていく。そのような歩みを心を新たに始めたいと思います。まずは身近な隣人を愛することから愛のレッスン、愛のエクササイズを始めてまいりましょう。

そして聖書の教える愛は「反復するもの」です。「一度愛してみた、愛せなかった。やっぱり無理だ。終わり」ではない。また始めに戻ってもう一度、愛してみる。二度でもダメなら三度、三度ダメなら四度。そうやって愛に生きる修練を重ねていく。神の大いなる愛、キリストの愛で愛された者たちして、愛に根ざし、愛に基礎を置く多磨教会・いずみ教会の歩みを、諦めることなく主に信頼して進めてまいりましょう。