9月第二の主日を迎えました。残暑の中にも少しずつ秋の気配が感じられる今日この頃です。去る11日は「秋の特別祈祷日」で、朝6時半から夜11時半まで、時を取り分け集中して祈りをささげる幸いな一日を過ごしました。祈りを聴いてくださる主にいよいよ信頼して、祈り続ける群れでありたいと願います。また今朝は礼拝の中で敬老祝福の祈りをささげました。主にある人生を忠実に歩んでおられるお一人一人にさらなる主の祝福がありますように祈ります。

1.アリマタヤのヨセフ

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫び、さらに「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」、「完了した」と言って息を引き取られたイエス・キリスト。その十字架上での最期の続き、今日の御言葉には、その日の夕方に主イエスの傷だらけになった遺体を取り降ろすアリマタヤのヨセフの姿が描き出されています。42節から45節。「さて、すでに夕方になっていた。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。ピラトはイエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した」。

ここに登場する「アリマタヤのヨセフ」という人物。先のクレネ人シモンと並んで、一回きりの登場ながら忘れられない印象を残す人物です。彼は「有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた」人でした。マタイの福音書27章57節には「アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた」とあり、ルカの福音書23章50節、51節には「さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった」とも紹介されています。ユダヤの最高法院の有力議員でありながら主イエスの弟子になっており、他の議員たちの計画や行動には同意していなかった、つまり主イエスの死刑判決には同意しなかった人だというのです。

あの主イエスを十字架につけようと圧倒的な力で突き進む大政翼賛的な最高法院の中に、このような一人の良心的な行動があったことを忘れずにいたいと思います。そしてそのようなヨセフを聖書は「善良で正しい人」と紹介し、それ以上に「神の国を待ち望んでいた」人として紹介します。神の民イスラエルの上にいつの日か必ず救いが来ることを、それを政治的な解放者、革命家としての救い主ではなく、まことに人を罪から救うための救い主として霊的な眼差しをもって見つめ、待望する人々の中に彼もいたのです。

2.勇気を出して

今朝、私たちはこのアリマタヤのヨセフの肩書きや人となり以上に、彼のとった振る舞いに目を留めたいと思います。「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」。以前の新改訳第三版や新共同訳、そして聖書協会共同訳では「思い切ってピラトのところに行き」と訳されています。またカトリックの フランシスコ会訳では「意を決して」と訳されています。元々の言葉には「敢えて」とか「わざわざ」とか、「大胆に」、「勇敢に」という意味もあります。彼がここで為そうとしていること、そして事実為したこと、それは決して当たり前のことではありませんでした。十字架につけられた犯罪人の遺体を、最高議会の議員が引き取るなどということはあり得ないことです。それは彼が議員だからとか、有力者だからとか、善良で正しい人だからとか、金持ちだからということではない。恐ろしくて、恥ずかしくて、人目に憚られること、しかし敢えて、わざわざしなければできないこと、勇気を出さなければできないこと、それはヨセフはした。そこに彼の「決断」の姿を見るのです。

ユダヤ人たちがこぞって十字架につけた犯罪人イエスの遺体を、そのユダヤ人の宗教指導者であるアリマタヤのヨセフが引き取って葬るという振る舞いが、周りの人々の目にどのように映ったか、そのことが彼の今置かれている立場や身分にどのような影響を与えることになるか、それらを想像することは決して難しいことではないでしょう。勇気を出して決断しなければ、普通の考えや振る舞いの延長線上には決して出て来ない行動に彼は出たのです。

そして彼は十字架刑に処せられた犯罪人に対しては、これもまた本来あり得ないような仕方で主イエスを葬ります。46節。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口に石を転がしておいた」。当時のユダヤでは庶民の多くは共同墓地に葬られました。一つの墓が用意されるというのは高い身分や財産の持ち主に限られた特権です。ヨセフは主イエスの遺体を亜麻布で包み、岩を掘って造った墓、マタイの福音書によれば「岩を掘って造った自分の新しい墓」、ルカによれば「まだだれをも葬ったことのない」墓に埋葬したのでした。

3.葬りを越えて

こうして、主イエスの十字架刑、その地上での最期、そして遺体の取り下ろしと埋葬の様子が記される。本来であればここで主イエスの物語は終わりを迎えるでしょう。ところが福音書はこれで終わりとはしません。47節。「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた」。これはマルコの福音書のエンディングとなる16章1節とのつながりで読むべき御言葉ですが、しかしこの主イエスの葬りの場に佇む女性たちの姿が描かれることで、そこに主イエスの死の現実を語りながら、しかしそれでことが完結したのではないことが示される。つまり主イエスの死と葬り、墓の中で過ごす安息日を越えて、やがて週の初めの日、すなわち主イエス・キリストの十字架の死から三日目の朝、あのよみがえりの朝へと私たちを導くのです。この朝、私たちはここに十字架の上で死なれた御子イエス・キリストが、その死と葬りを越えて人を新たに生かし始めておられるかすかな兆し、小さな希望の光を見させられます。「もう終わった」と見える主イエスの死が、死で完結せずに死からの復活に向かっていくその矢印を追っていくようにと私たちも促されているのです。

アリマタヤのヨセフは自分の置かれている立場、他人の目、評価、自分の身の保証を投げ打って、主イエスを葬るためにその遺体を取り降ろしました。その行動はユダヤ議員のヨセフにとっては無謀なことであり、しかも死者に触れるものは汚れるという旧約聖書の規定によれば、明日に控えた安息日の礼拝にすら出席できなくなる振る舞いです。しかし周囲の目や評価、自分の身の保証、そして旧約の律法に服して生きることよりももっと大事なことがあると決断したのです。それが十字架に死なれた主イエス・キリストとともに生きるということでした。ここに私たちは主イエスのいのちに生かされる新しい人の誕生の姿を見るのです。

さらに今日はもう一つの御言葉にも目を留めたいと思います。ヨハネの福音書19章39節、40節。「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼はイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた」。ここにアリマタヤのヨセフとともに登場する人物。ヨハネの福音書3章で、人目を憚ってひっそりと主イエスのもとを訪れた夜の求道者ニコデモです。あのニコデモが今や主イエスを葬るために人々の前にその姿を堂々と表すのです。一人また一人と主イエスの元から去っていった人々がいる一方で、一人また一人と主イエスのもとにやって来る人々がいる。彼らは主イエス・キリストの十字架のもとに集まって来た人々です。恥辱にまみれ、死のにおいの漂う主イエスの亡骸のもとに集まって、そこに自らをもさらして生きようと、思い切って、勇気を出して決断した人々です。主イエスの十字架が引き起こす出来事とはこのようなことなのです。

4.決断する信仰

この朝の説教題を「決断する信仰」とつけました。「決断」というと人間の側にあまりに力点が置かれ過ぎると感じられるかもしれません。確かに救いは徹頭徹尾、神の恵みによるものであり、信仰も神の恵みの賜物です。私たちはキリストの贖いの恵みを感謝して受け取るだけであり、そこには人間の努力や善行が果たすべきものはありません。これは私たちの信仰理解のもっとも重要なことです。そのことを十分に踏まえた上で、そのキリストの贖いの恵みが引き出す信仰の応答としての「決断」があることもまた事実です。「信仰する決断」でなく、「決断する信仰」。つまり「信じる」という人間の決断が信仰をもたらすというのでなく、神の恵みの賜物としての信仰が、私たちのうちに決断的な態度をもたらすのです。そこでは神の恵みに捉えられ、突き動かされ、引き出される応答としての決断が生まれるのです。

聖書は私たちの救いにおける「信仰の告白」を重んじます。主イエスは福音書で弟子たちに「あなたはわたしを誰だと言いますか?」と問いかけ、パウロはローマ書10章で「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と言います。そこには人間の主体性、応答性が働きます。ピリピ書2章では「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と励まされる通りです。それとともに、その信仰の告白も聖霊の与えてくださる恵みです。一コリント12章3節で「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」とある通りです。そしてこの聖霊は私たちのうちに働いて主イエスへの信仰を告白させるばかりでなく、主イエスを告白する勇気、主イエスに従う決断をも与えてくださるのです。マルコ13章11節。「人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です」。アリマタヤのヨセフを突き動かしたもの、ニコデモを突き動かしたもの。彼らをして思い切って一歩前に踏み出す勇気を与えたもの。それが聖霊が与えてくださる信仰なのです。  

私はこの多磨教会の牧師として、この教会がこのような聖霊による勇気を与えられ、決断する信仰に生きる群れとなることを祈り願っています。皆が横並び、右へ倣えの社会となり、教会もキリスト者も信仰の旗色を鮮明にすることが憚られるような時代になったとき、どっちつかずの教会、態度保留の教会、沈黙する教会、後ずさりする教会でなく、教会のかしらなる主イエス・キリストの十字架と復活のいのちに生かされ、聖霊によって励まされ、支えられて、一歩前に出る勇気、小さくとも明確な声を上げる決断、キリストのいのちに生かされている生き様をさらす勇気、そして人を恐れる以上に神を恐れ、人の顔色をうかがうよりも神の御前に生きる決断に生きる教会として建て上げられていきたいと願うのです。私たちは恐れやすく、勇気もなく、小さく弱い者たちです。けれども主は大いなるお方であり、力あるお方であり、勝利者でいらっしゃる。この主にあって、「主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」と歌いつつ進む多磨教会でありたいと願います。