5月第三主日を迎えました。今朝も復活の主イエス・キリストの御前に招かれて礼拝をささげられる恵みを感謝します。教会の暦では、イースターからペンテコステの間の、聖霊を待ち望む季節です。この朝も、私たちに主イエス・キリストを証ししてくださる聖霊によって心照らされて、主の御声に聴いてまいりましょう。愛するおひとりひとりの上に主の豊かな祝福がありますように。

1.人は何に熱心になるのか

今朝からマルコ福音書14章に入ります。私たちはすでに主イエスのよみがえりを祝ったのですが、福音書では主イエスの十字架の時が近づいてくる緊張感の中へと進んでいくことになります。そのような緊張感の中で、今日の箇所の中心にあるのは一人の女性の振る舞いです。3節。「さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食卓をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ」。このいささか突飛とも思える振る舞いに人々は驚き、怒りを露わにして彼女を責め立てます。4節、5節。「すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。』そして、彼女を厳しく責めた」。しばしば説明されるように、一デナリは当時の労働者の一日分の賃金に相当するということですから、三百デナリは一年分の年収です。それだけ高価な香油を壺を割って、惜しみなく主イエスの頭に注いだというのですから、人々が「何のために」と問うその理由が彼女にはあったはずですし、「香油をこんなに無駄にしたのか」との憤りに対しても、彼女には決して無駄ではない振る舞いだったのでしょう。そこには彼女のある種の「集中」、「熱心」、「一所懸命さ」が伝わって来ます。それはいったい何のためであったのか。それはこれほどの犠牲を払うに価するものだったのか。

このことをよく受け取るためには、まず1節、2節、そして続く10節、11節を読んでおくことが有益です。それによって彼女の振る舞いの持つ意味がより一層際立ってくるからです。1節、2節。「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは、『祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない』と話していた」。ここに登場する祭司長、律法学者たちにも集中し、熱心になり、一所懸命になるものがありました。それは「どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか」ということでした。過越の祭り、種なしパンの祭り。それはかつてエジプトで奴隷の苦しみの中にあったイスラエルの民を神が救い出してくださった救いの御業を思い起こし、いのちが贖われた喜びを祝う時です。その祭りを前にして、民たちに意味を思い起こさせる役目を担う祭司長、律法学者たちが熱心になっていたこと、それが「どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろか」ということだったのです。

さらに10節、11節。「さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスを上手く引き渡せるかと、その機をうかがっていた」。十二弟子の一人としてこれまで主イエスと一緒に生きて来たイスカリオテのユダ。彼もまたここで集中し、熱心になり、一所懸命になっていることがあった。それが主イエスを売り渡す機会をうかがうことだったのです。ちなみにマタイ福音書26章14節以下では、ユダの報酬は銀貨三十枚だったとあります。当時の銀貨はシェケルという単位で、一シェケルは約四デナリ、それが三十枚で百二十デナリということです。三百デナリの香油と考え合わせると、なんとも複雑な思いにさせられます。いったい人は何に心を捕らえられ、何に集中し、熱心になり、一所懸命になるのかと問われる思いになります。

2.ナルドの香油を注いだ女性

そこであらためてナルドの香油を注いだ彼女の姿に目を留めたいと思います。3節。「さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食卓をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ」。この場面は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書のいずれもが記録する印象深い出来事ですが、3節から9節のマルコの書きぶりとマタイ福音書26章1節から13節はほぼ共通しているのに対し、ルカ福音書7章36節から49節の書きぶりはかなり違っています。そしてこの二つの書きぶりを独自の視点でまとめあげているのがヨハネ福音書12章1節から8節です。少し詳しく見ておきましょう。まずマルコやマタイはこの出来事の起こった場所がベタニヤの「ツァラアトに冒された人シモンの家」であること、それが主イエスの受難を前にした過越の祭りの時であること、女性は主イエスの頭に香油を注いだこと、それが主イエスの死への備えであったことが明らかにされますが、彼女が何者であるかは明らかにされていません。

一方、ルカ7章を見ると、出来事の起こった場所はカペナウムの近くで「パリサイ人シモンの家」、タイミングも特に過越の季節でなく、主イエスとのやりとりを見ても十字架の死と葬りへの備えという意味合いは薄いこと、むしろ主イエスに対する愛と献身のしるしとしての意味合いが込められていること、彼女は香油を主イエスの頭ではなく足に塗り、それを自分の髪の毛でぬぐっていること、彼女は「一人の罪深い女」と呼ばれており、マグダラのマリヤのことだとも言われます。そしてヨハネ12章を見ると、場所はベタニヤと言われるだけで家が特定されていませんが、主イエスの受難を意識した振る舞いであることなどはマルコやマタイと同じです。一方で彼女が主イエスの足に香油を注ぎ、髪の毛でぬぐうという点ではルカと共通しており、しかし彼女のことをマルタ、ラザロの姉妹であるマリヤだと明言している点でマルコ、マタイ、ルカとも違っています。

このように四つの福音書それぞれに独自の眼差しで彼女の振る舞いを見つめているのですが、どの福音書も共通しているのは、そこに彼女の主イエスに対する集中、熱心、一所懸命さを描いているということ、そしてその集中、熱心、一所懸命さの中心にある理由は主イエス・キリストに対する一筋の愛であること、そして香油を注ぐという振る舞いに、その愛が生み出す献身の姿を見ているという事実です。しかし周囲の人々は彼女の振る舞いの理由が分からない。それで「なぜそんな無駄なことをするのか」と憤慨し、もっと有効な使い道があったのに、貧しい人々に施せばよかったのにと彼女を責め立てるのです。

3.愛の記念

ここで私たちは立ち止まって考えたいと思います。一体誰が彼女の振る舞いを「無駄だ」と決めることができるのか、一体何を基準にしてその振る舞いを「無駄」と言えるのか。確かに「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」というのは説得力を持つ声でしょう。しかし「言うのは簡単」なのです。他人の献げ物、他人の献身の姿を見て、「あんな無駄なことを」、「もっと他に使う方が役に立つだろうに」、果ては「自分だったらあんな使い方はしない」と言う。でも言うのは簡単です。そういう彼らの一体誰が一年分の報酬を貧しい人に差し出したでしょうか。

彼女は一所懸命なのです。一所懸命に主イエスを愛して、主イエスのために自分のできる精一杯をささげた。それは主イエスと彼女との間のことであって、第三者が口を挟む余地はない。主イエスに対する振る舞いの価値は、主イエスに対する愛が決めるものなのです。この女性は主イエスの頭にナルドの香油を注ぎました。彼女がその香油の価値を知らなかったとは思いません。けれども彼女は「これは主イエスの頭に注ぐべきもの」と考え、そうするに値することと決断して実行したものでした。なぜならそれは主イエスこそが「キリスト」、「油注がれたメシヤ」であることのしるしとしての意味を持ったからです。この間、福音書の主張と人々の理解は少しずつズレが生じていました。主イエスに付き従う者たちには、なかなか主イエスの受難予告と期待するメシヤの姿が重ならないのです。しかしそんな中で聖書は、油注がれたメシヤのお姿をむしろより、よりハッキリとさせて行く。私たちの待ち望む救い主メシアは十字架の苦しみを身に引き受けてくださる御方なのだと。それを示したのが彼女の振る舞いでした。8節。「彼女は自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました」。

先週の信徒懇談会で礼拝における「献金」の位置づけや説明の必要が語られました。とても大切なことです。教会の営みは主に献げられた尊い献金で賄われるものですから、「無駄遣い」をせず、適切、適正に用いられ、報告することが求められます。そこで考えたいのは何をもって「無駄」とし、何をもって「無駄」としないかということです。その判断においてこそ教会の福音宣教の意識、奉仕の意識、そして何よりも主御自身に対する献身が問われるでしょう。そもそも主イエスに献げて生きるというということは、必ず誰からか「何のために無駄なことを」と言われることを引き受ける覚悟が必要です。伝道者になろうなどと考える人はなおさらかもしれません。けれども、その献身が本当に無駄かどうか、損か得かを決めるのは私たちではない。それを決めるのはただお一人、私たちをまっすぐに見つめられる主イエス・キリストだけなのです。

他人からは無駄と見える歩み、損と映るような人生を、自分ですら自分の姿を見て「やっぱり無駄だったか」、「結局損だったか」と思ってしまうような人生を、にもかかわらず「彼は、彼女はわたしのために、良いことをしてくれた」と言ってくださる御方がおられる。この振る舞いのどこがと他人も自分も思う、そんな私たちを見つめて「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となる」と言ってくださる御方がおられる。だからこそ聖書は名も知らぬ女性の姿を書き留める、そしてそれを愛の記念としてくださるのです。彼女は主イエスの愛を知った人です。そしてその愛によって動かされ、主イエスを愛した人なのです。結局のところ私たちを動かすものは、この主イエスのいのちがけの愛で愛されているという事実であり、その愛が私たちに主イエスへの愛の応答としての主イエスへの愛の集中、熱心、一所懸命さなのです。