幸いなクリスマスを過ごし、2025年の締め括りの主の日を迎えました。今年も1年、52回の主の日の礼拝がささげられ続けてきたこと、ともに主を礼拝する兄弟姉妹の交わりがあり、ともに集うことのできる会堂が備えられ、礼拝をささげる自由があり、お一人一人の健康、家庭、お働き、学びの日々が守られてきたこと、そして何よりも、こうしてお一人一人の名を呼んでご自身の御許に招いてくださった主なる神の愛と恵みがあったことを覚えて、心からの感謝と賛美をもって主に栄光をお返ししたいと思います。今日も皆さんの主の豊かな祝福がありますように。
1.あなたはわたしの愛する子
今日の説教のためにマルコ福音書1章9節から11節が開かれています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』」。大変よく知られた御言葉ですが、祈り備える中で、今日はルカ福音書3章21節、22節、そしてそこに至る2章から3章の御言葉に目を留めたいと願っています。まず21、22節をお読みします。「さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ』」。
この御言葉は、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストが、やがて30歳になられる頃、いよいよ神の国の福音を宣べ伝える公の宣教のご生涯に入られる直前に、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたときの光景を記すところです。水から上がられた主イエスの上に聖霊が降り、天から御父の宣言が鳴り響く。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。御父が御子をどれほどに愛しておられるか。それを私たちにも知らしめる決定的に重要な宣言です。そしてこの宣言は、私たちにとっては「イエス・キリストとはいかなるお方か」をはっきりと示す貴重な証言でもあるのです。11月末のアドベントから「私たちの信仰」というシリーズ説教を始めています。「聖書とはいかなる書物か」、「聖書の語る神さまとはいかなるお方か」を学び、続いては年明けからは「神によって造られた人とは何ものか」、「神の御子イエス・キリストとはいかなるお方か」を学んでいく予定ですが、今日は少し先取りして、「イエス・キリストはいかなるお方か」と言う主題の一番大切なところを確認しておきたいと思います。「イエス・キリストとはいかなるお方か」。それは「父なる神に愛された神の子である」ということです。
あちらこちらで紹介する言葉ですが、永井春子先生という方が書かれた『青少年のためのキリスト教教理』という書物の中で、こういう問答があります。「キリスト教とは何ですか」、「キリスト教とはキリストです」。まさにキリスト教信仰にとって決定的なのはイエス・キリストご自身である。当たり前のようなことなのですが、でもこのことを一年の終わりに確認しておきたいのです。なぜなら私たちはしばしば信仰の道を迷い、主イエスの姿を見失い、様々な疑いや憂いを抱き、信仰の足元がぐらつき、時には深刻な信仰の危機を迎えることもあるからです。ではそのような時に私たちはどうすればよいのか。誰かに話を聞いてもらう、牧師と相談する、いろんな信仰書を読んでみる、何かの集会に集う、でも何か足らない、もっと深いこと、もっと難しいこと、もっと複雑なことが必要なのではないかと考えてしまう。そしてそれが分からずにいつしか主のもとから離れていってしまう。しかし、実はそれほど難しいことではないのです。大事なのは「はじめ」に戻ること、基本に返ること、原点を確認することです。つまり主イエス・キリストのお姿をじっと見つめるということです。そしてこのお方がいかなるお方であるかをもう一度確かめることです。
2.主イエスの歩み
「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。そのように御父が語りかけられる御子イエス・キリスト。このみことばを通して、私たちの主イエス・キリストが父なる神の愛された大切なひとり子、父なる神の喜びの存在であることを見つめるとき、そのイエス・キリストによる救いの尊さ、そのための十字架の苦しみの意味、そして復活の確かさの意味も分かって来ます。何よりも主イエスの十字架と復活に現れた父なる神の愛の深さが分かって来る。そして主イエスのお姿をじっと見つめることで、その御子の御前にある自分自身の姿とも出会うことになるのです。
「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。この御父の天からの語りかけだけでも、私たちは十分過ぎるほどに御父の御子に対する愛を知ることができますが、しかしルカ福音書2章、クリスマスの後に続く幼子イエスの成長物語を見ると、御父の御子に対する愛がどれほどに深く豊かで大いなるものであったかを知ることができます。確かに御父と御子は三位一体の愛の交わり、永遠で完全な愛の交わりの中におられる神ですから、愛し愛される関係があるのは当然と思いますが、しかしルカ福音書の書きぶりを読み進めていくと、幼子イエスが少年となり、やがて成人し、30歳で公生涯に入られるまで、父なる神の愛の養いと育み、しかもそれはナザレの大工であった父ヨセフと母マリア、また周囲の人々の愛と労苦を通しての養いの育みの中で育って行かれたことがひしひしと伝わってくるのです。
ベツレヘムの馬小屋での誕生から一週間後、ヨセフとマリアは生まれたばかりの赤ちゃんイエスさまに割礼を施すために神殿に連れて行きます。2章21節。「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である」。そこで老預言者シメオン、女預言者アンナの祝福を受けた後、39節、40節。「両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。幼子や成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった」。またやがて主イエスが成長して12歳になった時のこと。41節。「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った」。そこで律法の専門家たちと論じ合う主イエスについて47節、「聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」。そして52節。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」。
ここには人としてお生まれになった御子イエス・キリストの歩みが記されています。当然のことですが、主イエスはいっぺんに成人したわけではない。あっという間に30歳になったわけでもない。勝手に一人で成長したわけでもない。幼年期があり、少年期があり、思春期もあり、青年期もありました。マリアがおっぱいを飲ませ、寝かしつけ、あれこれと世話をし、ヨセフも家族を食べさせるために懸命に働き、両親として育てる務めを果たしていった。聖書が語らないことをあれこれ詮索すべきではないでしょうが、主イエス自身も人としての貧しさ、憂い、悩み、痛み、悲しみ、怒り、涙、労苦を味わわれたように、ヨセフもマリアも幼子イエスを成人になるまで育て上げるには、計り知れない労苦と忍耐、祈りと知恵深さが求められたことでしょう。そうやって人として歩まれた主イエスの歩みのすべてを見て、そこに関わったすべての人々、すべてのプロセスを認めるかのようにして語られたのが、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という宣言なのです。
3.私たちの歩み
このことのゆえに、このキリストにある私たちの歩みもまた、この父なる神の愛の宣言の中に置かれ、見つめられ、位置づけられるのです。ハイデルベルク信仰問答第33問に次のようにあります。「問33:私たちも神の子であるのに、なぜこの方は神の『独り子』と呼ばれるのですか。答:なぜなら、キリストだけが永遠から本来の神の御子だからです。私たちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです」。ここで信仰問答は「私たちも神の子」と言います。キリストを信じる時、私たちもまた神の子どもだというのです。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という天からの声を、私たちは御子イエス・キリストにより、聖霊のゆえに私への言葉として聞くことが許されるのです。「わたしの愛する子イエス・キリストのゆえに、あなたもまたわたしの愛する子だ。わたしはあなたも喜ぶ」と。
この御父の愛のまなざしと愛の宣言のもとで、今日、私たちはこの一年の私たちの歩みを見つめ、締めくくるものでありたいと願います。いろいろなことがあった一年でした。まだそれらをゆっくり振り返るいとまもないかもしれません。けれどもぜひ今週、2026年の年が明ける前に、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と御子イエス・キリストのゆえに私たち一人一人に、皆さん一人一人に語りかけてくださる御父の愛の語りかけのもとで、一年の歩みを思い起こし、御前に感謝と悔い改めと、そして何よりも主への賛美をささげていただきたいのです。そう申し上げている私自身も、この御言葉によって生かされた、生き返らされた、そんな感謝があるのです。
2023年の12月半ば、学園理事長の務めにあり、24年度からは学長の務めも負う予定であったところで心労が重なって倒れてしまいました。これは皆さんにもお伝えしたことです。しかし本当に大変だったのはむしろその後でした。倒れて二週間後の12月末に、当時の学園常任理事会から辞任を迫られるという経験をしました。助けてくれる、支えてくれると思っていた方々から、まさかの辞任勧告を受け、倒れたところを上から踏みつけられるような思いでした。「必ず戻るから、結論を出すのは少し待ってほしい」と願い出ましたが、「待てない」ということで結局、そのまま春に理事長職を辞し、学長就任も辞退して学園を去ることになりました。心の病以上に深い傷を受け、私も妻も今もその傷は完全に癒えていません。そんな中でもう立ち直れないというところから主の憐れみでもう一度、牧会に復帰し、市原平安教会を経てこの多磨教会に導かれて来ました。皆さん体調を心配してくださっていますが、そこはおかげさまで回復しています。しかし一度受けた心の傷はなかなか癒えるものではありません。それは正直に申し上げておきたいと思います。
しかしそんな中で繰り返し聴き続けたのが、今日の御言葉です。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。まだ回復途上で教会の礼拝にも出席できなかったころ、市原平安教会の礼拝で、一緒に奉仕していた伝道師のデービッド・マクドエル先生がこのみことばを語ってくださいました。家で画面越しに礼拝に集い、その説教を聴きながら、はじめて聴いたかのような心揺さぶられる思いになりました。またその頃に一つの賛美を知りました。こういう歌詞の歌です。「なにができても できなくても なにを得ても うしなっても ただ愛されてる天の父に わたしは神の子。」誰があなたを傷付けても、誰があなたを裏切っても、誰があなたを軽んじても、誰があなたを蔑んでも、誰があなたを侮っても、誰があなたを使い捨てにしようとも、誰があなたを見下しても、誰があなたを評価し、格付けをし、他人と比べて価値を計ったり、値踏みしたりしようとも、それでもあなたの価値は何ら変わらない。あなたの尊さはいささかも損なわれない。聖霊により御子イエス・キリストのゆえに神の子どもとされるということは、この変わることのない永遠の愛、決して冷めることなく、薄れることのない父なる神の子に対する愛の交わりの中に迎え入れられることなのです。
この愛の中に生かされているのが私たちの歩みです。2025年、いろいろな所を通られた皆さんの歩みだったでしょう。しかし確かに言えるのは、あなたは天の父に愛されている神の子だということです。この確信の中でこの一年の歩みを締め括り、迎える2026年へと歩み出してまいりましょう。