2025年のクリスマス礼拝を迎えました。主にあって心からのご挨拶を申し上げます。クリスマスおめでとうございます。厳密には今日は待降節、アドベントの第四週の始まりで、24日のイヴから25日にかけてクリスマスが祝われますが、今日の日曜日は日本中、世界中の教会でクリスマスを祝う礼拝が献げられています。私たちもその大きな喜びに連なって、ともに主を賛美し、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。

そして来週は今年最後の主日礼拝です。今年も一年52回の主の日の礼拝が献げられ続けてきたことにも感謝します。そのような感謝の中で、主の恵みに与ってまいりましょう。御前に集められた愛するお一人一人に主の豊かな祝福がありますように。

1.愛の福音書、愛の手紙

クリスマス礼拝の今朝は、ヨハネの手紙第一の4章のみことばに聴きたいと願っています。9節だけを読んでいただきましたが、あらためて7節から10節を読みます。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。

この箇所はしばしば「愛の賛歌」と呼ばれるところです。アドベント第二週にピリピ書2章6節から11節の「キリスト賛歌」を味わいました。あの箇所は当時の教会で歌われていた賛美歌であっただろうというお話をしました。今日の箇所も散文でなく、明らかに詩文で書かれているところで、ヨハネが技巧を凝らして記したのでしょう。原文でも韻を踏んだ美しい表現となっています。そして形式のみならず、内容もまた「神の愛」という聖書のもっとも大切なメッセージを伝える深く美しいものとなっています。

私がこの箇所を読んで思い出すのは、日本の希有な大衆伝道者であられた本田弘慈先生です。先生の伝道集会にずいぶん出ましたが、いつも説教箇所はこの第一ヨハネ、説教題は「ここに愛がある」。導入から本論、その途中に挟まれるいくつかのエピソード、お決まりのフレーズや信仰についてのたとえ、そして最後の怒濤の迫りから決心を促す終盤まで、分かっていても毎回心に迫るものがあり、まさしく「ここに愛がある」ことがひしひしと伝わってくる説教だったことを思い出します。同じメッセージを幾度繰り返しても決して色あせない。それは何と言ってもそこで語られるのが決して色あせることのない「神の愛」だからに他ならないでしょう。

そしてそれは神の愛を何度も繰り返し語ったヨハネの確信でもあったのでしょう。ヨハネは福音書、書簡の中で「愛する」や「愛」という言葉を繰り返します。動詞の「愛する」は新約で143回中、福音書で37回、 書簡が第一で28回、第二で2回、第三で1回の計31回、名詞の「愛」は新約で116回のうち、福音書で7回、書簡が第一で18回、第二で2回、第三で1回の計21回。つまり新約聖書で使われる「愛する」や「愛」のうち、実に四割近くがヨハネの用語であり、しかも第一の手紙は動詞、名詞いずれも突出した頻度で使われていることがわかります。

2.愛の初め、愛の極み

こうしてヨハネが福音書で、手紙で何度も何度も繰り返し語ってきた神の愛。それらの言葉の結晶のような表現が今日の9節なのです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです」。アドベント第一週の礼拝で学んだように、ヨハネは福音書1章でクリスマスの出来事を次のように言い表しました。1章1節。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。14節。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。そしてこの出来事に現れた真髄をこう記しました。3章16節。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神のひとり子がこの地上に来てくださった。天の高きの極みから、地の低きの極みにまで降りて来てくださった。それは神の愛の語りかけが姿形をとったという出来事でもあった。それは言わば神の愛の「初め」とも言うべき出来事です。そしてこれが私たちがクリスマスを記念し、喜び祝う意味です。そしてこの出来事を見つめるときに、クリスマスの迎え方、祝い方も定まってくるでしょう。

しかしそれだけではない。このクリスマスに表れたのが神の愛の「初め」だとすれば、その神の「極み」がある。これを」ヨハネは13章1節でこう記しました。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」。ここは先週木曜の祈祷会でも学んだところですが、「最後まで」の欄外中には「極みまで」とある。主イエスがご自身の私たちの愛を最後まで、極みまで、惜しみなく、最後の一滴、最後の終極まで愛し抜いてくださった、それが「十字架」、そして「よみがえり」だと言うのです。

クリスマスに示された「愛の初め」は、十字架と復活によって「愛の極み」を迎える。そしてこの福音書に記した神の愛の「初め」と「極み」を、この手紙では詩のようにして記すのです。9節、10節。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。

3.愛が示され、愛が分かる

ヨハネがこれほどに繰り返し神の愛を語った、語ることができた、あるいは語らねばならないと決心してそれを実行したのはなぜでしょうか。そればかりでありません。この手紙の中でヨハネは読者たちに向けて「愛する者たち」、「愛する者たち」と語りかけています。彼は愛を語る人というだけでなく、実際に愛する人、愛に生きる人でもあった。ではそのように愛に生きたのはなぜなのでしょう。またそれはヨハネ自身がまさに神の愛を知った、経験した人だったからにほかならない。

愛は愛されてこそ分かる、経験的なものだからです。ヨハネ福音書を読むと「主に愛された弟子」という言い方が出てきます。これは恐らくヨハネが自分のことを書くときに使った表現だろうと考えられています。「主に愛された弟子」。これがヨハネのアイデンティティーだったのです。「主に認められた弟子」とか「主に用いられた弟子」とか、「主から重んじられた弟子」とか「主から一目置かれた弟子」というのでなく、「主に愛された弟子」だと。では彼はどのようにして自分は主に愛されたと経験したのでしょうか。ガリラヤ湖畔の舟の中で兄弟ヤコブと一緒に網を繕っていた折りに、「わたしについて来なさい」と主イエスから声を掛けられた時でしょうか。三年半の主イエスの歩みにペテロ、アンデレ、ヤコブとともに弟子の筆頭格としてお供していた時でしょうか。主イエスのことばを側近くで聴き続け、主のなさった数々のしるしを目の当たりにし続けた時でしょうか。

恐らくそれらの経験の積み重ねがあったことでしょう。しかしその最大の経験はやはり十字架の出来事であったでしょう。あのキリストの十字架の出来事、その時にはその場に彼は居られなかった。主イエスを裏切ったのはペテロだけではない。むしろゲッセマネから逃げ去った弟子の中にヨハネもいたのです。しかし後にこの出来事を振り返った時に彼は記したのです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです」。

示されたばかりではない。その前の3章16節ではこうも記しています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」。「私たちに愛が分かった」とはものすごい言葉です。主イエスの受肉による「愛の初め」と十字架による「愛の極み」によって神の愛が示され、その示された神の愛が分かった。だから彼もまた愛する者となった。人々に向けて「愛する者たち」と語りかけ、その愛に生きる人となったのです。

4.互いに愛し合う

クリスマスに示された神の愛、十字架に示された神の愛。そしてその愛は「愛が分かった」と言わしめるほどの、抽象に逃げない愛、リアルな愛です。ですからヨハネは神の愛、イエス・キリストにおいて示された神の愛を語るときには、それに続いてその愛に生きるようにとのチャレンジを私たちにも与えるのです。11節、12節。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。また3章16節。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」。この抽象に逃げることを許さない、徹底した愛の実践へのチャレンジ。クリスマスはそのようにして私たちを「愛された者」として「愛する」こと、愛された者として愛する人となること、そのような生き方へと押し出すのです。

あのヨハネの福音書13章も、愛を終わりまで、極みまで示された主イエスのその直後の振る舞いは「弟子の足を洗う」ことでした。そして「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです」と言われ、さらには「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました。ヨハネは主に愛された弟子として、この新しい戒めに生きた、そして私たちにもこの新しい戒めに生きるようにと呼びかけているのです。

愛は抽象ではありません。理想ではありません。それは私たちが身に着けるべき生き方です。ヨハネが名詞としての「愛」よりも、動詞としての「愛する」を多く用いることの意味もここにあるでしょう。まさに神がご自身の愛をそのように示してくださった。そのひとり子を世に遣わし、その方によっていのちを得させてくださった。私たちを愛し、私たちの罪のために宥めのささげ物として遣わしてくださった。そして御子イエス・キリストご自身が、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださった。ここに「神の愛が私たちに示され」ました。その示された愛をよく見つめ、心に受け入れ、「それによって愛が分かった」と告白する者でありたい。そしてこの愛の命令に従って愛を分かち合う者として、愛に根ざす教会として、迎える2026年を歩んで参りましょう。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」。