11月第一主日を迎えました。今日の礼拝を私たちは召天・逝去者記念礼拝としておささげしています。古くから教会は地上の生涯を終えた者たちを覚え、記念することを大切にしてきました。私たちも今朝、愛する者を先に送られたご遺族に主なる神さまのからの慰めが新しく与えられるよう祈り求め、また私たちもやがて地上の生を終えていくべき者であることを覚えて、神がくださる永遠のいのちの希望を受け取る時としたいと願っています。ここに集われた皆さんお一人一人に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.主イエスとやもめ
今朝はルカの福音書7章に記されたナインという町での出来事を取り上げます。11節、12節。「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人が大勢、彼女に付き添っていた」。今、ここで何が起こっているかについて、詳しい説明は不要でしょう。ナインという町の入口の門に主イエスと弟子たち、そして大勢の群衆が入って行こうとする。町の門に近づくと、そこを通って出て行こうとする一群と行き会う。それは死者の棺を運び出す葬りの列でした。ここで目に留まるのは「見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった」という言葉、そしてそれに続く「その母親はやもめで」あったという事実です。ここでルカ福音書はわざわざ「見よ」と言って、この箇所を読む私たちにも注意を促すのです。
この後の14節を見ると、主イエスは亡くなった息子に「若者よ」と呼びかけています。彼は恐らく10代後半から20代前半ぐらいだったのでしょう。そんな若さでどうして亡くなったのか理由は分かりません。長年の患いの結果か突然の事故か、ともかく若い人の死は家族や周囲の者たちにひときわ大きな衝撃と痛み、悲しみをもたらすものです。そしてその悲しみの真ん中にいるのが彼の母親でした。彼女は「やもめ」であり、亡くなったのは「一人息子」と言われる。これだけでも彼女の痛みと悲しみが想像されます。若くして夫に先立たれ、女手一つで一人息子を養い育ててきた。彼女もまた30代後半から40代前半ぐらいと想像されます。当時のユダヤ社会にあって「やもめ」は様々な意味で生きづらさと困窮の中に置かれていました。それだけでも苦労の耐えない日々であっただろうに、大切な一人息子にも先立たれてしまう。それは彼女の人生の「これまで」と「今」だけでなく、「これから」についても大きな喪失と痛みを与えるものでした。
2.主イエスのあわれみ
そのような葬りの行列と出会われた主イエスは、ただこの母親の姿をご覧になっただけですべてを理解なさったのでしょう。13節。「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた」。「泣かなくてもよい」。皆さんはこの主イエスのことばをどのように聞かれるでしょうか。私はかつてこのみことばを、主イエスが「泣くな」と言っておられるように聞いていました。今はずいぶん世の中が変わりましたが、私が育った時代は「男らしさ」、「女らしさ」というものが当然のようにあって、「男だったら泣くな」、「泣くのは女々しいことだ」と言われ、でもその一方で「男泣き」などという言葉も使われていました。「泣くこと」は弱さのしるしであり、弱さは人に見せるものではない。泣きたいときでもそれをぐっと堪えることがよしとされました。戦争中に多くの母親が愛する夫や子どもたちを失いましたが、涙を堪えて気丈に振る舞うことが美徳とされ、妻や母親の鑑とされた時代もありました。しかしここで主イエスが言われた「泣かなくてもよい」は、「泣くな」という言葉、悲しみを退けるような言葉ではありませんでした。
このことを、今朝私たちはこの主イエスの、一人息子を失って途方に暮れ、涙にむせぶ母親に向けられたまなざしから教えられたいのです。13節の冒頭に「主はその母親を見て深くあわれみ」とあります。このあわれみのまなざしは、すでに私たちがマタイ9章36節で確かめたものです。すなわち主イエスが「群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」という、あの「深いあわれみのまなざし」、内臓が引きちぎれるほどの深い痛みと悲しみ、そして時に憤りを伴うほどの感情です。そのような深いあわれみのまなざしを、今、主イエスはこの母親にも向けておられる。そこには愛する一人息子を失うという経験がどれほどのものか、ということをよく分かってくださる主イエスの共感が表れています。
そのようなまなざしのもとに語られた「泣かなくてもよい」は、泣くことを退ける言葉ではない。実は他の翻訳聖書ではここを「もう、泣かなくてもよい」と訳しています。私もこの訳がこの場面には相応しいと思います。「もう、泣かなくてもよい」。そこには「泣いてもよい時」があり、「泣いたほうよい時」があり、「泣くべき時」があることを示しています。ちゃんと泣くべき時に泣けないとずっとその悲しみと痛みを引きずることになる。ちゃんと泣くべき時に思い切り泣いてよいし、泣くことが必要な時がある。その上で主イエスは「もう、泣かなくてもよい」と言われる。泣くべき時があるが、泣き続ける必要はない。やがて泣くことを止めてよい時が来る。それが今この時だというのです。
3.死の行進といのちの行進
ではなぜそう言えるのでしょうか。続く14節、15節を読みます。「そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された」。ここで驚くべきことが起こる。亡くなった息子が生き返るという奇跡を主イエスはなさったのです。
ここで起こったことはどういうことか。もう少し広い視野でこの出来事全体を見つめておきましょう。主イエスは町の中から出て来る「葬りの行進」に向かって行き、「近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった」。ここで主イエスは棺に手を置き「葬りの行進」、「死の行進」にストップをかけられる。つまりここでは「死の行進」が「いのちの主」であるイエス・キリストを先頭にした「いのちの行進」によってその歩みを止められるのです。そればかりでなく、主イエスは棺の中にいる死んだ一人息子に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じられる。これは「いのちの主」であられるイエス・キリストだからこその宣言です。そしてその宣言がなされた時、「死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された」というのです。その結果、16節、17節。「人々はみな恐れを抱き、『偉大な預言者が私たちのうちに現れた』とか、『神がご自分の民を顧みてくださった』といって、神をあがめた。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった」のでした。
この出来事は「死人が生き返る」という点では、主イエスのなさった数々の癒しや悪霊の追い出しとは一線を画するものです。なぜなら繰り返すように、そこには「いのちの主」であるイエス・キリストの権威が現されているからであり、何よりも重要なのはこの出来事がやがて起こる主イエスの十字架の死とよみがえり、そしてよみがえりを初穂として主イエスを信じる者に約束されている「身体のよみがえり」を先取りする出来事だからです。ここで主イエスは若者に「起きなさい」とお命じになりました。「起きる」とはまさに眠っていた人が起き上がる姿をあらわす言葉です。そして聖書でこれは主イエスのよみがりを指し示す言葉でもあるのです。つまり主イエスにあって「死」はすべての終わりではない。「死」は眠りであって、やがての時が来れば「起き上がる」ようになる。それが主イエスのよみがえりであり、それを信じる者に与えられるよみがえりの希望なのです。
4.涙をぬぐうまなざし
私がこの箇所を読んで思い起こすのは、私の祖母のことです。祖母は戦争末期に祖父と離別し、一人息子であった幼い父を連れて朝鮮半島から引き上げ、戦後も大変苦労した人ですが、その父を先に天に送ることになった。そして父が召された翌年に後を追いかけるようにして召されていきました。父が最後の時を浜松のホスピスで過ごしている時、祖母が私たち家族をみな病室から出して「しばらく二人だけにしてほしい」と言ったことがありました。窓越しに様子を見えた、もう昏睡に入っている父の枕元で背中を丸くして涙ながらに切々と話しかけている祖母の後ろ姿を今も忘れることがありません。でもそんな祖母にも主イエスは「もう泣かなくてもよい」と涙をぬぐうまなざしをもって見つめ、やがてのよみがえりの時があると語りかけてくださったと信じています。
この希望があるからこそ、主イエスは涙に暮れる母親に「泣かなくてもよい」、「もう泣かなくてもよい」と言われた。それは決して死の現実を軽んじる言葉ではありません。よみがえりがあるからといって死は決して軽んじられるような出来事ではないからです。愛する者の死に際して「泣くな」、「涙を流すな」、「よみがえりがあるのだから泣く必要はない」、まして「あなたはよみがえりを信じないのか」と信仰を疑うことは決してない。むしろ泣くべき時があること、悲しみに暮れる時があること、よみがえりの希望を信じていても、どうしようもなく寂しく、悲しく、悲嘆に暮れる時があることを主イエスはよくご存じでいてくださり「ちゃんと泣いていいのだ」、「しっかり泣きなさい」と背中をさするように語ってくださり、しかし十分嘆き悲しみ、涙を流した後では、涙をぬぐうまなざしをもって「もう泣かなくてもよい」と語りかけてくださるのです。
「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」(一テサロニケ4章13、14節)