11月第三主日を迎えました。2日は召天者礼拝、9日は成長感謝礼拝、そして来る23日は歓迎礼拝、30日からはアドベントと、毎週のように特別な礼拝が続きます。少し落ち着かない感じがあるかもしれませんが、だからこそみことばに集中することを大切にしたいとも思うのです。今朝も生ける主の御前に招かれた愛するおひとりひとりの上に、主の豊かな祝福があるように祈ります。
1.「聖書のみ」と「聖書の全体」
10月末でマルコの福音書を読み終えました。聖書の一つの書物を順を追って読み進める説教を「連続講解説教」と言います。プロテスタント教会の基本的な説教のスタイルであり、私自身もそのような説教の奉仕を長く続けてきました。それとともに「主題説教」と呼ばれるスタイルもあります。私はある統一した主題のもとにシリーズで学ぶ説教も大切にして来ました。そして今日から新しくみことばに聞き始めます。「私たちの信仰」というテーマで、私たちの信仰を形作っている事柄を一つ一つ取り上げて学んでいこうというものです。聖書とは、聖書が語る神、人間、キリスト、聖霊、救い、教会、終わりの事柄といった大事な教えを皆さんと確かめたいと思います。
宗教改革から生み出された私たちプロテスタント教会は、何と言っても「聖書」を大切にします。「聖書のみ」(ソラ・スクリプトゥラ)と言う言葉を聞かれたことがあるでしょう。私たちが救いを得るために「聖書」に書かれているに何かを加える必要はない。「聖書」に書かれていることだけは足らないということはない。聖書だけで十分。それが「聖書のみ」の意味です。それと同じくらい大切なのが「聖書の全体」、「聖書のすべて」ということです。当然ながら「聖書」がそこにあるというだけでは意味がない。聖書は読まれてこその聖書、説かれてこその聖書です。そして聖書は創世記からヨハネ黙示録まで旧約39巻、新約27巻、あわせて66巻で聖書です。ですから「聖書のみ」を大切にする私たちは「聖書の全体」を読み、「聖書の全体」から聞き、教えられることをも大切にしたいのです。多磨教会が長く取り組んでいる聖書通読はそのような姿勢の表れでしょう。
「聖書の全体」を学ぶには、創世記からヨハネ黙示録まで読み進めていくことが基本です。そのための有益な助けや手引きも数多くあります。しかし聖書を1章ずつ読むと全体を読み通すのに3年近くかかる。途中で挫折する人も多い。なのでひとまず大づかみに聖書全体を知ることも有益です。9月から11月まで土曜日に開いた「聖書を読む会」もそのようなことを願っての学びでした。また最近手にしてオススメの本を二冊持ってきました。一冊は日本聖書協会理事長の石田学先生の書かれた『聖書通読31 神の救いをたどる旅』(日本キリスト教団出版局)。文字通り旧新約聖書全体を31日でたどるという本で、コンパクトながら優れた一冊です。もう一冊は絵本です。N.T.ライトという世界的な聖書学者が子どもたちのために書いた『わたしの聖書物語 神さまの大いなる計画』(日本聖書協会)。ヘレナ・ベレス・ガルシアという方の描かれた絵も素晴らしく、楽しい絵本です。
また「聖書の全体」を教えられている内容ごとに学ぶという方法もあります。2020年に出版した『喜びの知らせ 説教による教理入門』(いのちのことば社)はその主たるものです。そして今回、新たに多磨教会の皆さんとも「私たちの信仰」というシリーズでみことばに聴きたいと願っているのです。
2.聖書の中心
「私たちの信仰」の最初に取り上げるのは「聖書」です。この朝与えられているヨハネの福音書20章31節を読みます。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」。私たちが神さまについて知り、信仰について知り、そして神さまの語りかけを聞き、信仰に導かれるために与えられている一番の手段が「聖書」だからです。それで今朝は「聖書は何を語っているのか」ということを、「聖書の中心」、「聖書の目的」に注目して、先ほど読んだヨハネとともにいくつかの聖書箇所を実際に確かめつつ、みことばに聴きたいと願っています。
まず最初にヘブル書1章1節、2節を読みます。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」。ここには、聖書の神さまが私たちに対して語りかけてくださるお方、「語られる神」であるという事実があります。その上で、この神さまの語り方が記されるのです。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られた」。これは要するに旧約聖書のことです。そして「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られた」。これが新約聖書のことです。旧約の時代と新約の時代。神さまの語り方が変わった。かつては預言者たちを通し、今は御子、すなわちイエス・キリストにあって語られている。まさに「ことばが人となって」私たちのもとに来られたイエス・キリストは私たちに向けての神の愛の語りかけだというのです。そしてこの「終わりの時」から先にずっと線を延ばしていくと、今の私たちにつながる。今私たちには聖書が与えられ、説教者が立てられている。そして何よりも聖霊が下ってくださった。ですから今、私たちは聖霊により、聖書を通し、説教者を用いて神の語りかけを聴くのです。
ではそのようにして与えられた聖書は何を語っているのか。もちろん聖書はこれだけの分量のある書物ですから、いろいろな時代のたくさんの人々の様々な出来事が記されています。しかしその中心にあるメッセージが何であるかをとらえることが重要です。そこで次に開きたいのがヨハネの福音書5章39節。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているのです」。これはイエス・キリストがユダヤ人たちに向けて語られた言葉です。またここで言う「聖書」とは旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは長い歴史の中で「聖書」に親しんできましたし、律法学者たちは聖書を調べて続けてきた。その聖書は「わたしについて証ししている」と主イエスは言われるのです。つまり聖書の中心、聖書の主人公は「わたし」だと。
これがいかに驚くべき言葉であったか。その衝撃を伝えるのがルカの福音書4章のナザレの会堂での主イエスの説教の場面です。ユダヤ教の会堂に入られた主イエスは朗読されたイザヤ書61章のメシア預言の箇所について、こう説教されました。21節。「イエスは人々に向かって話し始められた。『あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました』」。 旧約のメシア預言はわたしにおいて実現したと言われたのです。
さらにルカの福音書24章44節、45節。「そしてイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません』」。主イエスはご自身の成し遂げられた十字架と復活の御業は、「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」すなわち旧約聖書に書いてあることの成就だと言われたのです。
そしてもう一つ、使徒の働き8章34節、35節。「宦官はピリポに向かって言った。『お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。』ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた」。イザヤ書53章の「苦難の僕の預言」を読み、そこに登場する「彼」が誰のことかと尋ねるエチオピアの女王カンダケの宦官に、主から遣わされたピリポは「この聖書の箇所」すなわちイザヤ書から始めて「イエスの福音を彼に伝えた」というのです。まさに聖書の中心は主イエス・キリストにあると言えるでしょう。
3.聖書の目的
そこであらためて今日のヨハネの福音書20章31節を読みます。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」。
聖書は世界のベストセラーです。世界で最も多くの言葉に翻訳され、最も多くの人々の人生に影響を与えてきた書物です。世界には様々な古典と呼ばれる書物がありますが、その中でも最たる書物が聖書です。キリスト者だけが聖書を読むわけではありません。ある人は歴史の関心から、ある人は政治や経済を支える価値観として、ある人は文学の関心から、ある人は歌の歌詞の意味を知りたくて、ということもあるでしょう。かつてある教会にお招きいただきた折、新来会者が来られ、礼拝後にお声を掛けて、教会に来たきっかけを尋ねると、その方はロシアの文豪ドストエフスキーを読んでいた。するとどうしても聖書のことが出て来る。それが理解できない。それで礼拝に来たというのです。うれしい出会いでした。どんなきっかけでも構わない。聖書に触れてくださる方が一人でも多く起こされることを願います。しかしさらなる願いは、その聖書が願っていることを受け取っていただきたいということです。確かに聖書は歴史が書いてある。ものの見方や価値観に影響を与える。文学の中にも与えている。しかしそれで満足してはならないでしょう。なぜなら聖書を通して神が伝えたいことがあるからです。
それにしても、聖書は決して読みやすい書物ではない、というのも事実でしょう。まずとにかく分厚い。このボリュームの書物と取り組むこと自体がなかなか大変なことです。何千年も昔の遠い場所の地名や名前に面食らうこともある。複雑な歴史もあるし、難しい言葉もあるし、今の私たちからするとどう受けとめたらよいか悩むところもある。一人で読んでいたのではなかなか難しい。だからこそ聖書は共に読み、共に学ぶ書物でもあると言えるでしょう。相応しい助けや手引きが要りますし、一緒に進んで行くれる道案内も必要です。教会で一緒に聖書を開き、礼拝において牧師を通して説教を聞く。これらはまさに私たちが神の言葉と出会い、その言葉に養われるために必要な恵みの手段と言えるのです。そのようにして聖書を読む。その聖書の目的は何か。神は聖書を通して何を私たちに伝えようとなさっているのか。
聖書が分かるというのは単に知的なことではありません。もちろん聖書を知的に理解するために専門的な学びをすることもあります。聖書の言葉、考え方、歴史、文化などなど、聖書の学者さんたちは日夜そうしたことを研究してくださり、そのおかげで私たちはたくさんの益を受ける。しかし単に知識が増えれば聖書が分かるか、というとそういうことばかりではない。やはり聖書が分かるというのは、聖書が伝えたいことをきちんと捉えるということが決定的に大切です。どれだけ聖書の言葉、歴史、文化、思想を詳しく知ったとしても、聖書が証しする主イエス・キリストと出会うことがなければ「聖書が分かった」ということにはならないのです。
それゆえに決定的に重要なのがこの御言葉です。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」。聖書を通して私たちが、ああ本当にイエスさまは神の御子なのだ。そして私たちのために十字架と復活によって救いを成し遂げてくださった救い主なのだと信じ、そして信じたゆえに主イエスの御名によって洗礼を受け、永遠のいのちをいただいているならば、私たちは「聖書がわかった」ということなのであり、また事実いまそのような救いにあずかっていることを確信することができるのです。