「教会を愛する」とは観念的なこと、抽象的なことでなく、実に具体的なことだと記しました。私にとってその一番の具体性は「お掃除」でした。最初の任地の教会での副牧師時代、平日に教会の姉妹方が草取りや花壇のお手入れに来られたり、土曜日の午後になると青年たちが教会の掃除と主日の準備に来る。日曜日の説教準備や週報の原稿書きなどいろいろやることはあるのですが、そういう時はなるべく一緒に外回りの作業や掃除をしました。土曜日など信徒の方からは「先生は明日の準備があるのだから、掃除はいいよ」と言われましたが、一緒に礼拝堂のベンチの拭き掃除をしながら、「副牧師は”拭く”牧師ですから」などとダジャレを言って、楽しく奉仕をしたのを思い出します。高校生、神学生時代の松原湖、そして教会での日々から「教会を愛すること」を身体で学んだかけがえのない経験です。

これから洗礼を受け、教会に加わろうとする方々との洗礼準備会で、いつも最後の回にお伝えすることがありました。「一緒に教会を担ってほしい」ということです。教会に問題が起こったり、傷ついたりする時がある。その時に対岸から眺めるのでなく、評論家然として事の善し悪しを論じるのでなく、まずは一緒にその労苦を担って欲しい。洗礼準備に相応しい言葉ではありませんが、「一緒にお神輿を担いでほしい」と申し上げてきました。

担ってみないと分からない教会の重み、背負ってみないと分からない十字架の重み、従ってみないとわからない主イエスの後を行く道行きがある。「恵みは欲しいけれど、重荷を担うのは勘弁して欲しい」ということでは主の教会は立ち行きません。使徒パウロが「今、私はあなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(コロサイ1:24)と記したように、私たちも「教会を担う」喜びを「自分の身をもって」味わいたいと思います。