これまで13回にわたって拙著『平和へのはじめの一歩』から、私たちにできる平和作りについて「自分からできること」、「人と人の間でできること」のいくつかのアイデアを紹介してきました。今回で一つの区切りとするにあたり、まとめとして「実験場として『教会』」について触れておきます。
「こうしてみると、恐れを超える道を行き、和解と理解の道を作り、平和を実現するために、『教会』という場が実に有効であることがわかります。平和作りの『実験場としての教会』と言ってもよいでしょう。それは、教会が理想的な愛と赦しの共同体であるからというわけではありません。現実問題として、多くの教
会で牧師と信徒の間に、信徒と信徒の間に、教会と教会の間に、教会と地域との間に、難しい対立が生まれてしまうことが多くあります。しかもそれはいまに始まった話ではなく、初代教会の時代から、あるいは旧約のイスラエルの時代から、人々が集まればそこに対立が生まれ、争いが生まれることは常であったことを認めざるを得ません。平和や和解を考える時に、人間の罪の問題を避けて通ることはできません。それでもなお教会が和解の実験場、平和実現の実験場であることができるためには、私たちが真に福音の自由と喜び、キリストの賜る愛によって生きたいと願い、御言葉から教えられ続ける姿勢をもち、しかも、自分たちが罪と弱さをもつ存在であることを認める謙虚な共同体であることが必要でしょう。自己完結と自己正当化のあるところには真の変革は起こりません」(76-77頁)。
教会が平和の実験場であるとは、それ自体がすでにおこがましい言い方かもしれません。しかし罪人である自らを認めた者たち、赦しを必要とする自らを認めた者たちの集まりだからこそ、真の赦しと和解を分かち合えるのが教会なのではないしょうか。